瞬間を記録するというおまじない

私は研究の中で何か作っている時や作業している時の過程をなるべく記録しておきたいと考えている。理想としては、試行錯誤の痕跡や思考の痕跡を可能な限り言語化して日記などで残すことだが、残念ながら私の性格はそこまで几帳面ではない。そこで、カメラやスマートフォンを使って写真や動画で記録することを心がけている。

写真や動画で記録することの情報量は意外と多いが、期待しているほどには少ない。それでも、おまじないやお守り程度に捉えておけば後々意外と役に立つ。

そもそも、私たちは自分たちが考えているほどに記録や情報を残してはいない。例えば、昨日は確かに動いていた試作機が今は動かないとして、自分以外の誰かがその試作機が稼働しているところを見ていた可能性は低い。つまりそれは動いていないことと同じなのである。あるいは、使っていた部品や配線、物品の配置などといった情報を正確に覚えてはいられず、ほとんど忘れていたりする。

何れにしても、今ここで何か重要な作業をしているのであれば、または、普段とは違う状況や環境で、自分が主体的に関わっているのであれば、その情報は何かしらの形で記録しておいた方が良いと考えている。

このような話は保身や証拠を残しておくといった後ろ向きな理由のような印象を受けるかもしれないが、そういう限りではない。ポジティブな動機もある。

多くの人がSNSにあげるような動画や写真はきっと、特別な体験や大切な人との思い出など、本人にとって重要かつ他人に共有したい情報であろう。私が写真や動画を残す理由も、それが特別な体験だからである。作っているものがやっと動いた時や、そもそも作っている過程、何か準備をしている状況そのものが、特別で、今この瞬間しかない体験だと思う。残念ながら、それらの情報は多くの場合、本人ですら大して感動している状況ではないし、他人がみたところで何も面白くはないと思う。しかし、それは自分が実際に体験した生の出来事である。

何か研究目的で作っているものなどの場合は、その情報をすぐに公表することはできないかもしれない。それでも、それらの記録は後々役に立つことを実感している。そして、振り返ってみれば、確かにそれらは価値があったと感じられる。

私は、私が初めて自分の試作機を試した瞬間を記録していている。その映像はたまに自分の発表などで使うことがある。それは、自分の心が動いた素のリアクションであり、きっと本質的な面白さを示唆しているからである。記憶としては徐々に薄れてしまうかもしれないが、その出来事が確かに存在したことを映像として残しておくことが、今も研究のモチベーションを支えていると感じている。そのため、誰かに初めて触ってもらった瞬間の驚きや困惑の反応も可能な限り記録しておきたいと考えている。

カメラは小型になり、記憶装置の容量は限りなく増えていっている中で、それでも人生の全てを記録するライフログのような活動を行う者は少ない。

私も別に生活の全ての時間を残しておきたいとは思わないし、その情報の大半はほとんど無価値かもしれない。それでも、せっかくなら大切な瞬間を切り取っておきたい。私の場合、それは何かを作る過程や作業風景といった非常に地味な日常なのだと思う。しかし、それらがおまじないやお守りのように後々私のことを助けてくれることがあり、これまで頑張ってきたという自信に繋がるのかもしれない。最後に補足すると、一方で私のフォルダの中には人物が写っている写真はほとんどない。


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