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建築の話 【 鳥かご と 境界 】

〈鳥かご と 境界 の話〉

https://www.youtube.com/watch?v=551sxmQ33wk

時又の家は、朝うるさいほどの鳥の声で目を覚ます。
鳥たちは、私が一か月前から住み始めたことなんて関係ないかのように、とても近いところまでやってくる。

約10年の間、この家は空き家だったらしい。
その間、されるがままだった家には蜘蛛の巣が張り巡らされ、砂ぼこりの薄い膜が張っていた。私はここに住まうべく、蜘蛛の巣を払い、水を流して、明かりを灯した。

家を人間たちの領域なんだと、そういう風に少しずづ整えていく。

そうして掃除を一通り終わらせた今年のWGの朝。

こうして鳥たちに起こされたわけだ。

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もう一つの話。
最近 とある鳥かご の設計コンペティションを出すという友人の話を聞いている。
設計するのはバードフィーダー、つまり鳥たちの餌場、若しくはシェルターのようなもの。
人間が、そのプロダクトをつくり、何かしらの環境を鳥に提供する。
さらには、自然環境の負担に対する何かしらの回答を求められていた。

私は最初にその話を聞いたとき、1つの違和感を感じた。
「これって“人のためのものなの?” “鳥のための空間なの?”」
前者ならば、清潔に保たれた金魚の鉢、若しくは動物園のオリのようなもの
後者ならば、きっと、トトロの蓮の傘みたいなものだろう。と私は問う。

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その答えや、スタンスみたいなものは すぐには答えが出ず、
結局、このコンペの主題、主催者側の意図を読み取って籠を自然物に近づける工夫をしたものになっていった。

鳥かご になった瞬間、境界が出来る。自然と人工(つくられたもの)なのかもしれないし、dengerとsafetyなのかもしれない。

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またそれをどこに設置するか。森の中か、まちの中か。それによって極めて小っちゃな境界が生まれるし、見方を変えれば、境界を曖昧にする干渉空間として機能することを期待するのかもしれない。

いずれにせよ、2極化な境界線上に新しい境界線がoverlapして、関係性を曖昧に抽象的にしていくのだと思った。

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話を戻して、私の部屋。
小さな住宅街の片隅にある住まいは、我々の領域だと思っていたが、
部屋から見える風景はまるでこちらが、小鳥に飼いならされているような気がしてたまらない。まるで檻に入った人間という動物である。


そしてあるとき気づかされた。人工物の中に自然があるのではなく、
自然の中に都市があり、我々はそこで自ら鳥かごを作っているに過ぎないのだと。

東京にいると気づけない(理屈ではわかっていたつもり)、それは東京という鳥かご が大きすぎるからで、決して自分たち領域を完全に制圧したわけでは無い。
だから、何かあると…例えば地震があって、どこか少しでも壊れたとき、境界を保てなくなり、自然に対して無防備になる。とても抽象的な表現だが、なんとなくみんな共感できるのではないだろうかと思う。

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建築という行為は、開発だ。如何に自然を押さえつけコントロールするのかという側面を常に持っている。都市に築くときはなおさら、その中に自然を創造しようとさえする。
しかしそれは鳥かごの餌場の止まり木みたいなもので、決して境界を造り出しているわけでは無いのだ。

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そんなことを考えて、自然と建築。建築行為。その在り方が少しわかったような気がした。あぁ、我々は鳥かご しかつくってきていないのだ。

最後の写真は、大平宿の風景。
ここは人間に見捨てられた領域。動的な管理がされずに非常に緩やかに境界が消失していく。ここの建物は、それはひっそりと建っている。何というか ”山を借りている” みたいな感じだ。

ここは鳥かご ではなく、もしかしたらトトロの傘のようなところなのかもしれないな。なんて思う。

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https://www.youtube.com/watch?v=IF6h6nocjAI


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