『にくをはぐ』感想(批評というか雑感)

TLでトランス関連漫画が話題になっているので、読んでみた感想や、ツイッター上で私が見た感想に対して、ちょいちょい引用したり反論したりしてみます。

該当漫画はこちら。

作者の遠田おとさんはいわゆる新人作家さん(原作つきのスピンオフ本を三冊出していますが)で、今作も一話読み切り形式。あらすじ等々は省きます(無料なので読んでいただければいいので)。
余談ですが作者さんについて調べていたら、1年ぶりくらいにツイッターを更新していました。

トランスジェンダー周りの描写について

まず、この手の漫画での鬼門というか、トランスジェンダー周りの描写について。

トランス男性(FtM。今作品の劇中では、千秋は自分の事を「男」としか呼んでいません。念のため)を描いた作品では、少し古い作品として『G.I.D』(庄司陽子、2006年)があるのですが、本誌掲載時にはかなりの間違いや不味い描写があり、単行本ではかなりの個所で修正が入っています(それでも、今の目で見るとダメな部分はかなりある)。

今回の作品の主人公である千秋は、『G.I.D』と同じで、トランスの中でも"中核群"(この言い方もだいぶ古典的ですが)らしさが強く漂う、つまりトランス男性という属性内における一種の王道的な主人公です。
作中にもトランスジェンダーの「あるある」はふんだんに詰め込まれています。
たとえば16ページ、千秋の「これからチンコが生えてくる」というような台詞は、子供のころから身体違和を感じていたトランス男性の手記やインタビューで、割と頻出するエピソードです。
また、20ページの「男の同級生と喧嘩した所、相手が配慮した」という場面(もし男同士なら、次のコマは殴り合いの取っ組み合いが想定されるわけです)も同様。
この手のトランス男性の王道的描写が、これでもかと盛り込まれています。

むしろ「あるある」を詰め込み過ぎて、少しあざとさも感じますし、周縁部分には一切目配りがされてないなという、うすら寒さを感じるのは確かです(この辺はツイッターでもそういう感想をツイートしている人がちらほらありました)。
一応、主人公がユニセックスネームであり、これまた典型的な悩みである「名前」の問題はスキップしているにしても、です。

このあたりは作者さんの力量の問題もあると思います。全体的には詰め込み過ぎで、また軸が多すぎて読み切りとしてはちょっと容量オーバーな作品だというのが、率直な所です。

千秋の性同一性について、どうとらえるか。

この作品の千秋は、いわゆる幼少のころから自分を男性として同一化(アイデンティファイ)していて、しかも揺らぎ自体ほとんど無いという、先に言ったようにかなり"典型的"なトランス男性として描写されています。

性同一性(ジェンダーアイデンティティ。性自認とも訳されます。より精度の低い"心の性"という表現もありますが、わかりやすい反面、誤解を生む危険が高いのであまり使ってほしくないです)をどうとらえるか、に関しては当事者の表現においても様々です。
そして、目に見えない概念であることから、しばしば「心に性別など無い」という心無い言葉とともに、性同一性は軽視され、時に無視されてしまいます。
それに対して、より哲学的に性同一性を矛盾なく説明しようという試みもあります。以下のリンクはそれら海外論文の抄訳です。

ここで紹介されている「規範への関連づけ説」はトランス当事者としてもかなりしっくりくる捉え方だなと思います(なのでこの辺をそのうちnoteで書きたいところ)。

さて『にくをはぐ』に戻れば、千秋の性同一性は男性であり明らかに自分を「男性規範に関連付けられている」と感じていることが分かります。
たとえば先に出した20ページの「男の同級生と喧嘩した所、相手が配慮した」のあたりは典型的な箇所です。
この場面において千秋は「殴り返されなくて良かった」とは考えません。むしろ自身が男性として扱われない事に苦悩する描写の一部として扱われています。
また、「女性で狩猟やってる人がいる」(P21)という知識も、千秋には救いになりません。なぜなら千秋にとって「父親と一緒に猟師をやる」でも「息子が父親と一緒に猟師をやる」と「娘が父親と一緒に猟師をやる」は明白に異なるからです。
そしてここには、父親のみならず彼自身もかなり保守的なジェンダー観を持っていることも絡んできます(後述します)。

身体違和についてどう考えるか

千秋は、身体違和についてもかなり王道的なトランス男性です。
生理に対して「内臓もちゃんと女」であるとして絶望したり(P58)、P35からP41に描かれている乳房に対する違和感、そして極めてつけは「この姿で死にたくない。…男として死にたい」という宣言(P53)に至るまで、千秋は、男性である自身の性同一性に反して、身体が女性であることにはっきりした違和感を抱いています。

そして、男性であるにもかかわらず髭が生えない事に悩み、男性ホルモン投与して一年でも髭一本しか生えないという変化の遅さにがっかりし、一方で生理が止まったことに喜びと(P11)、これまたトランス男性として王道的な描写が並んでいます。

しかしながら、千秋がYoutubeで姿を晒している事(それも巨乳をエサにしている)に関しては、劇中でも言われていることですが、王道的なトランス男性としての描写ではありません。
もちろんこれは、ユーチューバー活動自体も千秋がやりたかった事の一つであることが終盤にわかるのですが、しかし千秋は身体違和の大きな原因である大きな乳房をかなり強調して、ユーチューバー活動を行っていました。これはどう解釈すべきでしょう?

私は、千秋が言っているようにお金のためというのは確かにあるのだろうと思います。千秋はユーチューバー活動において、大きな胸が金銭的にポジティブな結果をもらたすことをはっきり認識しています。
しかし千秋の自分の胸に対する感覚は、単なる金のなる木ではありません。自身の抱える身体違和と乳房に対して、自分が女としてみられる原因であるとして嫌悪するとともに、一方でこれは自分の体では無いという感覚もあったのかなと、私は読みました。
だからこそ、それにつく「クソコメ」に対しては、軽くいなしている程度で済むわけで、自身の身体が性的にまなざされることに対しては、女として扱われること以上のはっきりした嫌悪感は描写されていません。
なぜなら大きな乳房は、自分の体には本来不要なのに、にもかかわらずくっついているパーツであるので、ある種どうでもいい代物だからです。
見方によっては、自分の身体に対する一種のセルフネグレクトかもしれませんが、身体違和があるというのは、そういうことも含まれているのではないか?と私は考えています。
この感覚については、私個人としてはとてもよくわかります。私も、自身の体が自分の体だと思えるようになったのは、性同一性を自覚して、治療を受け始めて、移行し始めてからでした(それまでは別に太っていようが無精ひげが生えていようがどうでもよかったんです。自分の体としては大切に思っていなかったので)。

いずれにしても、千秋はトランス男性としてかなり明白な身体違和を持った、やはり王道的なトランス男性であると言えます。

女性差別がトランスの原因では?という感想について

しかし、トランス性の知識があまりない、あるいは現在進行形でトランスフォビアをまき散らしている(トランスなんか存在しない)"フェミ"系の人の感想としてちょいちょいでてくる感想に「女性差別がなければ千秋はトランスしなかった」系のものがあります。
こんな感じの感想です。

基本的には作品は、どう読もうと読者の勝手ではありますが、この手の感想は、あまりにも作品を読めてないなと、いちトランスとしては強く思います。
まあ1つ目の感想については「いやまず読めよ。無料なんだし」と思うわけですが……。
すでに述べたように、千秋は自身を明らかに男性としてアイデンティファイしていますし、はっきりした身体違和も持ち合わせています。それら全てを「女性差別」に回収するのはあまりにも無理があります。
ましてそのような批評をシス性に行われる事自体、トランス性からすればシス中心主義的なマジョリティ臭さを強く感じます。

この問題をより深く考えるためには、作品全体を通して、なにより千秋自体が非常に保守的なジェンダー観を持っている事に、注目しなければなりません。

作品と登場人物を覆う保守的なジェンダー観

『にくをはぐ』に登場する人物のジェンダー観は、ありていに言って相当に保守的です。

作中において「女に狩猟は無理」という価値観から千秋を狩猟に参加させない父はもちろんですが、すでに鬼籍に入っている母も「立派なお嫁さんになってね」という遺言を残しています(それぞれP21、P22)。
これら両親のジェンダー観は千秋にとって、父親に花嫁姿を見せる(あるいは父が死ぬまでは女性として通す)という呪いになってのしかかっています(なお、こういった風に身体性に精神を無理やり合わせようと努力するのも、トランスあるある)。
しかし、なら当の千秋はどうかというと、そういった規範を女として受けることに強い嫌悪は感じてこそすれ、そういった規範が存在することそのものに関しては、むしろ肯定的に受け取っている節があります。

大筋のみならず「男の癖に全然カッコよくねえ!」といった細かい台詞回しからも、彼が父親と同じかなり保守的なジェンダー観を持っていることが、作中の端々から伺われます。
そのことがよりはっきり伺えるのが、P35から5ページあまりに渡って描かれる千秋の夢です。父の手によって乳房と子宮(千秋が考える、女性身体の象徴的な部分)を切り取られて「これで俺も山に登れるよ」と感謝する場面です。
千秋は「女性で狩猟やってる人がいる」ということは知識として知っており、しかしそれは彼にとって一切救いではないことは先述しました。
つまり彼は、父の「女に狩猟は無理」(つまり狩猟は男の仕事である)といったジェンダー観に、反発するよりはむしろ肯定的な見解を持っていることを示唆しています。

また、P84の「彼女募集中」に関しては、私もちょっと唐突な違和感があったのですが、どうやら男性ユーチューバーでは定番の文句らしい……というツイートを見ました。

こういった描写がやや投げやりに感じられる辺は、この漫画のちょっと弱い点だと思います。
いずれにせよ、千秋の苦悩を全て女性差別に回収しようとする見方は、あまりにも作品の読み方として筋が悪い、はっきり言ってトランス性の存在自体を否定するためという政治的な意図が強く透ける悪意ある見方であると、私は思います。

トランス性のジェンダー観について

ここで一旦、トランス性自体のジェンダー観について、考えてみます。
トランス性は、男から女あるいは女から男へ性別を移行するという、(シス性からみれば)極めてドラスティックな行為をしているため、その価値観はそのドラスティックさに埋もれがちです。
しかし、実際のところトランス性は、トランス男性ならばシス男性と同じく、トランス女性ならシス女性と同じくらいには、保守的な価値観を持っている人が多く居ます。

また、トランス性は"他人からどうみられるか"という点において、シス性より身体的なハンデを抱えています。そのため、装飾や見た目において、シス性に比べてよりジェンダーを纏うことで、それに対処しています。

千秋のようなタイプのトランス男性が抱えるミソジニー的価値観は無論、フェミニズム的な観点から見れば批判されるべき対象です。
しかし一方で、トランス性の性質やトランス男性の男性における立ち位置、社会に蔓延するシス性中心主義(に対処せざるを得ないトランス性の現状)を考えれば、これらに対する批判は、相当な慎重さが求められてしかるべきはずです。

そういった姿勢やトランス性のマイノリティ性に対する誠実さを書いたまま、「男ジェンダーの要素=男特有の専売特許だと盲信している」などという風に批判するのは、極めてシス中心主義的で差別的な態度であると私は思います。

そして千秋について言えば、こういった保守的なジェンダー観を持つことも含めて、やはり王道的なトランス男性であると言えます。

私たちにはまだまだ物語が必要である

ここまで『にくをはぐ』の感想や雑感を長々と書いてきましたが、はっきり言っておきたいのは、この作品は極めて保守的な物語であり、ミソジニーや家父長制的な臭いが全体を覆い尽くしています。そのためフェミニズム的な観点から見れば批判されうる物語です。
しかし一方で、これはこれでひとつのリアルなトランス男性像でもあります。
そして、こういう風にリアルな世界に根差した形で(つまり当事者からみてファンタジーで無い形で)描写されるトランス男性(トランス女性)の物語は、私たちにとってまだまだ必要である、ということです。
残念ながら、それが現在の日本におけるトランス性の立場です。

この作品を書くにあたって、作者の遠田おとさんは相当に当事者の声を聞き集めて臨んだのではないかと、容易に予想されます。あるいは当事者なのかも?というくらいには、かなり精度面は高いなと思いました(まあ私はトランス女性なので、トランス男性当事者がどの程度この部分に共感してくれるかは、割引いて考える必要がありますが)。
これがジャンプという少年誌界隈に(たとえweb版であるにしても)取り上げられたのは、率直に喜ばしい事です。

無論、漫画としてはやや詰め込み過ぎな部分、読み切りとしてはもう少し軸を絞った方が良いのではないかと思う個所、女性差別に対するスタンスの問題とフェミニズム的観点からの批判、なによりトランスジェンダーの中でもより周縁化された層に対するあまりの無頓着さ等々、気になる点やアラは有りますが、それを差し引いてもこういった作品が作られて掲載された事には、いちトランスとして賛辞を述べたいです。
たとえミソジニー的であったとしても、こういう物語をまだまだ私たちは必要としている段階なのです。

長々と書いてきましたが、この作品を読むときの一助になれば幸いです。


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