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松ちゃんと僕らの物語 その10    プロフェッショナル仕事の流儀取材開始

 さあ、「チーム松井」の出番である。ともかく週二回、二人ずつのローテーションを組んで面会に通うことにした。国選弁護士と相談し、今後の裁判に向けて打ち合わせする。裁判では、奥田が引受人となり「情状証人」として出廷する。面会時のやり取りはメールで共有。ただ、話す内容などは、面会するそれぞれに任せる。厳しいく叱る人、温かく迎える人、ともかく聴く人。そういうグラデーションがある方が良い。

とかく「支援方針」というものを専門家は求めるし、それに即してプランを立てるが、当然そういうことも大事なのだが抱樸の伴走型支援は「質より量」ということで、「つながりの量を増やす」ことに最大限集中することになる。キーパーソンも大事だが「一本道」に絞ると、それがダメになると全部ダメになってしまう。これが「ワンストップサービス」、すなわち「縦割りを止めて支援の窓口を一元化する」ことの弱点でもある。だから7人が自分に合ったやり方でアプローチすることになった。

 松井さんが逮捕された頃、世界を揺るがす大問題が発生していた。2008年9月アメリカの投資会社リーマンブラザーズが倒産したのだ。その影響は一企業の倒産に終わらず、全世界を巻き込む「世界金融危機」を誘発した。日本もご多分に漏れずその影響を受けた。一気に経済が傾き始めたのだ。そもそも90年後半以降、非正規雇用が増大していた日本において、最初に影響を受けたのは「派遣社会」や「契約社員」であった。12月には東京日比谷公園にて「日比谷年越し派遣村」が開村。厚労省の道向かいにある公園に派遣切りや雇止めに遭い仕事と家を失った人々が集まった。この頃、北九州においても二十代のホームレスが登場した。僕らは、松ちゃんへの支援と共に、この未曾有(ミゾウユと読んだ人がいたなああ)の事態に右往左往していた。

 そんな中、NHKから連絡が入る。当時、NHK総合で高視聴率番組であり、今も続いている「プロフェッショナル仕事の流儀」のスタッフからだった。「ホームレスの支援現場を番組にしたい」とのことだった。その後、東京から担当者が北九州にやってきた。この番組は、僕自身も好きでよく見ていたが登場する方々は、どなたも世界的なまさにプロフェッショナル、唯一無二の存在ばかり。天才外科医とか、トップアスリートだとか。それは、それは、「すごい人」が登場していた。

 だから、正直躊躇があった。第一に僕は当時「無給」で活動していた(牧師の給料のみ)。プロを有給と取るならば「アマチュア」ということになる。何よりもやっていること自体、その気になれば「誰でもできる」ことで、特別な技術や資格は必要ない。苦節何十年という修行を積んだわけでもない。さらに最もこだわったのはNPO法人抱樸は、一人の逸材が活躍しているのではなく「集団解決方式」、つまりチームで活動していることだった。

 一方でホームレスや困窮者の現状が番組で取り上げられることで、とかく「自己責任」と切り捨てられてきたことの理不尽さなどが明らかになることには意味があった。それでNHKの担当者に「今回はせめてプロフェッショナルズ、つまり、複数形のSをつけるというのでいかがですか」とお願いしたが「おしゃっていることはわかりますが、番組名は変えられません」とのことだった。まあ、そうりゃそうだわ。
 抱樸専務の森松さんと相談したところ「誰も奥田が一人でやっているなんて思っていない。みんな、ちゃんと解っている。だから出ればいい。ホームレスの現状などが多くの人に伝わることが何よりも大事だと思う」とのことだった。それで取材を受けることになった。

 その時の担当デレクターが座間味圭子さん。茂木健一郎さんによる「ファブリーズ座間味」という異名を持つ人である。なぜ、ファブリーズなのかはともかくとして、とても根性のある人だ。そして、2008年12月末「プロフェッショナル仕事の流儀」の取材が始まった。一か月以上、ほぼ毎日、朝マイクを付けられ一日中カメラが付いてくる。最初は緊張していたが、慣れるというか、そんなことを気にしていては仕事にならずカメラの存在を意識しなくなる。ただトイレに行くにもマイクがついているので音声さんは、さぞ「いろいろな音」を聞いてらしたと思うが、それに気づくのにはしばらくかかった。後で思うと少々恥ずかしい。電話がかかってくる。「今、NHKが取材にきててね、朝から晩までくっついてて、もうめんどくさいのなんの」と話しながらふと振り返る。座間味さんとカメラ、音声さんがこっちを見ながら笑っておられる。全員、僕の声をイヤホンで聞いておられるわけで。「あああ・・・・というか、そういう意味ではなく・・・」と離れたNKHチームに合図を送るがもう遅い。以来、トイレに行く時「マイク切ってください」とつぶやいてから用を足すようになった。

 取材をしばしば受ける。テレビ、新聞、雑誌、ラジオ、最近ではインターネット上のメディアなどもある。どの取材者も素敵な方々で、そもそもホームレスや困窮者のことを取り上げるということ自体、その人の価値観や生き様を感じさせる。だからなるべく現場に、できる限り直接出会ってほしい。だから取材の有無に限らず現場を案内する。特に僕以外の人を取材する時は、当然ではあるが本人に取材者が直接交渉してもらう。僕が紹介したり、ましてや頼んだりしない。取材対象がスタッフだと私は上司という立場になるし、当事者だと「かつてお世話になった人」になってしまう。となると断りにくいからだ。

 座間味さん達がやってきた頃、チーム松井は面会作戦を続けていた。「拘置所にいる人だから取材はできないですが、私達の活動が良くわかる場面だから一緒に面会にいきませんか」と誘ってみた。松井さんには、つながる人が増えることが何よりも大切だと考えていたからだ。人はつながりの中で生きていく。問題を解決する専門知識や技術は言うまでもなく重要だ。しかし、それ以上に「つながり」が重要だと私達は考えてきた。繰り返すが伴走型支援は「質より量」。「質じゃなく」などと言うと座間味さんに失礼だが、私も含めてつながりの一つに過ぎない。一人のスーパーマンよりも、多くのつながりの方が上手くいく。それがこれまでの経験から言えることであり「伴走型支援」なのである。

 しかし、これは座間味さんにとって「はじまりがあれば終わりがある」という取材の枠組みを超える出会いとなった。つまり、彼女は面会に行ったことでこの後「出会った責任」を負うこととなった。そして、座間味さんがそうであったように、出会いは平等であり相互的。松ちゃんにとっても座間味さんとの出会いは「出会った責任」を考えるきっかけになった。それは、松ちゃんが自立に際して語った「わしにもできることあるやろか」と向き合うことを意味していた。
 

 座間味さんという新しいメンバーが加わり、チーム松井は面会を重ねていった。松ちゃんはと言えば、座間味さんの参加で上機嫌。「このスケベ親父!」。この素直さが松ちゃんの魅力でもあるのだが。

つづく


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