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「死ぬ」ことはできない。幸せに生きるための努力をしよう

ぼくが敬愛する哲学者のアランは、こう言っています。

「誰でも自分の商売や出世のための努力は、大いにやる。しかし、普通には、自分の家で幸福になるためには、何一つしないものだ。」

ぼくは何度も言ってるんですが、
人って、幸せになるために生まれて、幸せになるために生きてるんですよ。

昔の暇な賢人たちは、人間がこの世にいる理由とか、生命の意義みたいなものについて色々と妄想して、その結果哲学とか神様とか宗教とかいろいろな文化があるわけですが、現在の自然科学では、人間あるいは動物・生物がこの世に存在している理由・意義は
「とくにない」
ということがわかっているわけです。

だから、我々人間に生きる意味ってないし、厳密にはないからこそ、生きる意味は自分で決めていいし、決めて生きないといけない。

だから、ぼくは、じぶんのいのちの理由について、
父や母やきょうだいや友達に出会い、
愛しい人に出会い結ばれ、
ときに大切な人を傷つけ、失って、
どこかの誰かに傷つけられて、
どこかの誰かに救われて、
どこかの誰かを守るために生まれて、
幸せになるために生きている。
そう信じて、生きているわけですよ。

われわれに生きる意味なんてない、というと、じゃあ死ぬのも勝手だよね?というひねくれた意見が飛びそうですが、

まあぼくもいつ死んでもいいように生きるつもりではいるんですが、
「生きるか死ぬか」で言うと、絶対生きた方がいいんですよ。
ってか死ぬって方の選択肢は取れないんです。原理的に。
「生きる意味なんてないし、生きていても苦しいだけだけから死んだ方がマシだ!」
といういう人がこの世にはいるらしいですが、これは明らかな誤りなんですね。事実ではありません。
生きていると確かに、いろんな辛いことや苦しいことがあるかもしれません(本当はそれは我々の情念がそう思い込んでいるだけで、「定義上苦しいもの」なんてものは存在しないと思いますが)が、その中にかけらも嬉しいことや楽しいこと、喜びがないかといえば、それは明らかなウソです。
我々は砂糖をひと舐めしただけで脳内に刺激が伝わり、幸福感がもたらされるし(これは生理的な反応なので紛れもない「事実」です)、
子供の笑い顔を見ただけで癒されるし、
のどかな田園風景を眺めるだけで心が満たされるし、
目の前のたった一人の友人を笑わせられたそれだけで、
生きててよかったと思えるんです。

一方、「死ぬ」と、その後に残るのは、「無」です。
みんな勘違いしてますが、死後の世界なんてものはなく、死んだ後に行く先は、「無」でしかありません。
死んだらもう喜びも悲しも何も無いのです。
死んだ後には「無」しか残りません。
思い出も残りますが、それは残された人のためだけにあるもので、死んだ当人に残るのは無でしかありません。
もはや、「死んだ方がマシか、生きた方がマシか」を判断する以前に、「生」か「死」かを選択する術すら私たちにはありません。
「死」とは「無」ですから、それを選ぶことすらも出来ないのです。

我々にできるのは、ただ、いま生きているという事実のみを理由に、
これからも粛々と生きて、自分の人生を満たすこと。
自分という実体を今この瞬間最大限に幸せにするために、
自分に親切に、優しく接すること。
これが本当の意味で「慈愛」であり、
それこそが、「幸せになるための努力」だと、ぼくは思います。

「幸せになるための努力」というと、
何らかの因果関係を前提に、努力の成果を積み上げてできた階段を登ることによって幸せに近づける
ような、そんな概念のように感じてしまうので語弊がありますね。
多くの人がそうであるように、そんな風に考えると泥沼にはまってしまうんです。

多くの人が家で実践していないと言われる「幸せになるための努力」とは、今この瞬間に「自分が幸せだ」と思えるための努力、人生を楽しむ心と体の態度であり、自分に対する優しさです。

それが意味するのは「幸せに近づくために積み上げていくべき努力」ではなく、「今この瞬間に自分を幸せにしてあげるための努力」です。
具体的にはそれは、
「いつも上機嫌でいること」
「まずは自分から微笑むこと」
「人を許すこと」
「人に優しくすること」
「モヤモヤしたらひとまず運動すること」
「趣味に励むこと」
「好きな本を読むこと」
「困ったらとりあえずお酒を飲むこと」
などの、小さな努力だと思います。

これらは努力であり、努力と言ってもそれ自体が楽しみであり、練習によって上達する技術でもあります。
天性の楽観主義者はこれらが才能によって自発的にできるので、いつでも幸せなんです。
ぼくは五体満足で常識的な知性もあり本当に親に感謝しているのですが、これらの才能に関してはあんまり恵まれなかったので、天性の才能によってそれを為すことができません。

だから今日も、自分と戦いながら、それを練習しています。
練習の中で、確固たるものに変わっていきます。
ぼくは誰に対しても上機嫌でいつでもニコニコして相手を思いやる、ということができない、愚かな人間です。
でもやはり練習して、自分から微笑んだり、人の欠点を許したり、困った時はとりあえず逃げて運動したりすると、やっぱりその瞬間に幸せになって、自分が好きになれるんです。

自分にやさしく親切でいるために、自分と戦いながら練習しているって、なんか矛盾していますね(笑)。
そのくらいには人間は愚かなんだと思います。
だからみんな苦悩するのでしょう。
でも、少なくとも、上記の努力が必要なことを認識し、日々練習しようと励んでいる自分がいる限りは、僕は幸せです。
だからぼくはいつでも幸せだし、過去も現在も未来も幸せだと思っているから、定義的に幸せなのです。


しあわせとは何か

「幸せ」とはなんでしょうね。
人それぞれいろんな形があって、それに答えることはむずかしいでしょう。
ただ、どんな幸せにもはっきりしているのは、
「自分が幸せだ」と思ったやつのほうが「自分は幸せじゃないかもしれない」と思っているやつより幸せである
ということです。

ここ、大事なところなので注目してほしいです。
たとえ、他のどんな条件が一緒であっても、同一人物の同一瞬間でも、
彼は幸せにも、いくぶん不幸せにもなれる、ということです。

事実や条件そのものは変わらないのに、幸せの状態が変わる、というのは、それが、我々の情念だからです。
やはり言葉や思考は我々を規定してるんですね。
それは不幸な響きを孕むものでもあり、我々に希望をもたらしてくれます。
仮に「幸せ」が事実ではなく情念だとすれば、それらは情念である限り、我々は思考と言葉の力によって、いかようにもそれをコントロールし、たった今この瞬間に生み出すことができるんです。

ぼくは「幸せ」をこう定義しています。
正直、「幸せ」そのものはどういったものかわからないのですが、とりあえず
「どんな状況下でも、自分が幸せだと思える精神と身体の状態。そしてそれをいつでも自分で実現できることに対する自信と自分への愛情。」
こう定義してます。してるんです。

「幸せは歩いてこない」とは言いますが、歩くとその辺にゴロゴロ転がっている。
というよりもむしろ、歩いてれば自分の中からゴロゴロと転がりでてくる。
そんなものだと思います。


(2018年12月18日。以下記事より抜粋して掲載。)


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ごきげんよう。ふんどしと健康と幸福を追求する、断食トレーナーののだぱいです。 「文京区で2番目にやさしい」と良く言われますが、実際そんなに優しくなく、 「根はやさしい」くらいだと思っておいてください。