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誰かのために書こうとしていない文章

こういう文章を、私は長らく書いてないな、と思ったのである。

つまり、自分のために、自分に向き合って、自分を表現するというような文章を。生み出すのも、届けられる先も、全部自分。自分からはじまって、自分に帰っていくような、そんな文章。

それを書いても、誰にも届かないかもしれない。それを書いたところで、何かが変わる期待もできない。それでも書く。

そんなような文章。


以前、脚本家を目指す人たちのセミナーを視聴したことがあるのを思い出した。その時、ある人が手をあげてこんな悩みを吐露したのだ。

「主人公に、どん底の経験をさせて成長させるという、物語の感情曲線のことは理解できる。でも、書いていると、主人公をそこまで陥れることができず、その手前でストップしてしまう」

そのときは、質問の意図がよくわからなかった。

経験していないのであれば、その人にとって真実に近いものは書けないだろう。それでも書くなら取材が必要だ。ただ、それをすればいいだけなのではないか。そもそも、主人公という架空の人物に、「どん底の体験をさせる」ことへの戸惑いとは一体・・・?

けれど、今は、わかる。あの質問の背景にあるのは、結局はその主人公を生み出した「自分」だ。

それを書いたら、どうしたって「自分の醜い部分」を見ることになる。「ダメ」で「恥ずかしい」と思っている自分の恥部を露わにするような気がする。あれは、そういう自分をどう乗り越えたらいいですか、という質問だったような気がするのだ。

こんな自分を見られたら、もう生きていけない。書くっていうのは、いや何をするにしても、そういう自分とのせめぎ合いである。私も、同じく、はい。


SNSには、あらゆる「個人」がいて、それぞれの人生や個性や体験が有象無象に発信されているけれど、そのどれもが自分のカケラみたいなもの。

その都度切り取って、その時々の調子のいい、あるいは調子の悪い「自分」として発信しているものに、「こんにゃろ」と腹を立てることも、「天使すぎる」と絶賛することもできる。

結局は、「誰か」に向けて書かれてあって、その時の一部の自分が、一部の自分に反応し、それを選んでいる。


けれども、ここ最近読んだ本は、ただひたすら自分に閉じこもるようで、かえって開かれていく開放感を感じるような文章たちだった。

共通していたのは、誰かを説得したいわけでもない、多くの参道を得たいわけでもない、有名か無名か、そんなことからは自由で、

ただ、深く自分の身に起こったことを、自分の目を通して、自分の責任で書くということ。モノや他人と同じように、自分を平等にみて、描き出すということ。

そうでもしないと自分が壊れてしまいそうな、焦りや荒々しさもある。それがかえって、創造の源と直結したような輝きを感じた。

誤字脱字とか、伝わるか伝わらないか、評価されるかどうかからはとっくに解放されて、

書き手の姿だけが生々しく立ち上るような、ただ人が「両足で立った」だけのことかもしれない力強さで、

自分のこと、あるいは半径数メートル圏内のことを、深く、潜り込んで書く。

そんな文章にふれて、私は少し懐かしいような気もしたし、私はこういうものを避けてきたし書いていないんだな、とも思った。

そして一瞬、もう誰に向けても書きたくない、と思った。とうとうきたか。

こうなったら、誰トクと言われるような文章を書き殴りたい。自分だけのために、自分という読者のために、ひたすら書き続けたい。誰が読むんだ?なんてところから、いっさい自由になって書いてみたい

と思ってしまったのは、こちらの2冊のせいです。


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