見出し画像

2020年にやってきたこと、12月9日の夜に

日記のような、私との対話を書きたいと思った。12月9日(水)の夜22:52。

昨日、乗っていた車にエンジンをかけようと思ったら、エンジンがかからなかった。ガソリンがないのか、バッテリーが上がってしまったのか、はたまたとっても古い車だったので、突然動かなくなった、ということもあり得そうだな、と車にさして詳しくもない頭で思う。

冬に差し掛かった沖縄、雨がやまない、風も強い、そんな日の昼間に、誰も食料を届けてはくれない一人の暮らしに、潤いを買い足そうと思って、ランチとも言えない中途半端な時間、駆け出そうとした瞬間の出来事だった。

動かない、なんてね、と笑ってしまった。彼に「ねぇねえ、いま困っていてね、車動かないんだけど(笑)」とLINEを送る。数千キロ離れてしまって、助けに来てくれるわけはないのに、なんとなあくレンタカー屋よりも先に、伝えちゃおうかな、と思った。

伝える、ということができる人が居てくれるというだけで、救われる田舎の端っこの日々。

画像1

私が2020年の終わりにやったことといえば、人生で初めてレッカーで私の車を運んでもらったこと。代わりにやってきた車は、一回り図体が大きくなって、色が真っ白から薄いくすんだ可愛らしいピンク色に変わった、けれど年代は少し古くなったような、そんなものだった。よろしくね、あと数日間だけれど、と私は心の中で言う。

今までの車は、私の車だ、なんて言ったって、期間制限のある借り物だった。沖縄の海のそばで、さとうきびに囲まれた暮らしを始めると決めた時、はじめに悩んだのは「移動手段は、どうしよう?」ということだった。どうしよう?ではない。「車がなくては生きてゆけない」。まるで、「あなたが居ないとダメなの」と泣きながら懇願するように、「車がなければ私はきっとダメになってしまう」笑い事みたいに思って、予算を思案した。中古であっても、20万円では、全然足りないのだろうか、50万円、80万円?

けれど、生活を進めてみれば、沖縄というのは短期・長期滞在者のメッカであって、私はすでに住民票を移した「村民」だけれど、車を買うかどうか決めきれない「軟弱者」なので、そんな私がおあつらえ向きに利用できる「マンスリーレンタカー」なるものが、月々3万円程度からあるようだ、と知った。

私はリサーチフェチであって、だからして世界中の交通網をその気になれば調べられて、だから月々2万1千円で借りられる小さな軽を探すのなんて、お茶の子さいさい朝飯前ちゃんだった。

来週になれば、新しい借り物ではない「本当の私の車」がやっとくるのだけれど(親しくなった島を出る人が、ちょうど廃棄しようと思っていたゆえ、ともみちゃん、いるかい?と申し出てくれたのだ、ありがたすぎて涙が出る、こういう恩を世界に返してゆかねばならぬ、私は)、それまでの日々を、この薄ピンクの子と過ごすのね、とじっと見る。

***

2020年に私がやってきたことと言えば、2019年にフリーランスになった自分の暮らしをきちんと心と体の状態まで含めて、安定させること。見据えたい未来をじっと見て、その上でバランスを取って猛進すること。そのために、まずは世界中70カ国回って1カ国、やっと決められたスペインという国で、5月から暮らし始めるために、年初からさらに語学の勉強に力を入れて、それまでにプライベートの何やかやを……

と思っていたしょっぱな、2020年2月頃からアジア・ヨーロッパ・北米問わず、なんだか「海外出張」「旅」「自由」というキーワードの仕事や予定が軒並み「消えていった」。あれ?と思いながら、3月の北海道、静岡、新潟等々の出張も、予定していた国内・海外旅も消え、気づけば4月に「自粛」になった。旅人だった私、さようなら。航空会社は減便、欠航、しまいにはフラッグシップが地球の反対側で潰れたと聞く。

画像2

私たちは、いつだって、どこへでだって行ける。そんな夢を語っていた旅人たち、仕事も好きなことを、誰だって、国境を越えて。………?頭ではわかっていたのに、けれど納得ができなくて、けれど私なんて、全然辛い方の人間ではない、ただ心の底から移動と旅を愛していただけ、それを実現するためだけに全ての選択となけなしの財産をぶっ込み、家庭を失っても、恋を捨てても、友人と離れてでも、まだ見たことない土地に……行きたかっただけ。行きたかった、だけの日々、よ、ばいばい。

2020年5月、6月、呆然と、けれど「こんな時間もいいよね」「家事をしたり、家庭菜園に精を出したり」「新しい仕事も作れたし、地に足つけて東京で」。

7月、「私のしたい人生は、一体?」。

もう一度、考えなければ。今まで描いていた道の修正が必要なこと、フィットさせ直すこと、勢いに任せて見て見ぬ振りをしてきた「私の幸せ」、SNSとか一度離れて、「誰のためでもなく私のために」手探り、改めて。

自然の近くで、あたたかな国で、アトリエのような家のような場所をひっそり創り上げて、「南の島で、暮らしたい」。

大真面目に考えて、仕事にかこつけてそれでも動きづらい日本の日々、島を探し、ここでいいのか、あそこでもない、そっちでもなく。

画像3

8月、「ここだ」と決める。(日本の最南端・波照間島、最西端・与那国島、石垣島など離島も見たが、国際線が飛ばない島では息が詰まってしまう、この世の中でも出張が多い私は、本島でなければ実際の暮らしが成り立たなさそうだ、と思い、本島にした)。家を探し、難航し、それでも諦められず、人に頼り。まずは賃貸契約ではなく、知人が紹介してくれたマンスリーの部屋の契約を1ヶ月だけ、借り暮らしで、と決め。

9月、関東の家を解約する。素敵なビンテージマンション・マンスリーの部屋に入金をする。東京の仕事を整理する、時節柄、直接挨拶できる人は限られる。親しい人たちにだけ話をして、自主隔離の準備をした。飛行機のチケットを予約して、世界一周の頃のように、少ないスーツケースの荷物を持って飛ぶ。

10月、1ヶ月の間に本拠地を見つける、というミッションを自分に課し、仕事のかたわら必死の思いで探し始める。1軒、2軒、いいなと思った端から別の人の契約が決まっていく。やっと内覧の予約が取れても、14時の約束の前に電話がきて「別の方に決まりました」と通達される。いいな、と思った瞬間には5番手、6番手、ひどい時は「前に10名以上キャンセル待ちの方がいます」など言われ、結局20-30軒内覧しても、決められなかった。

沖縄の理想の家探しは、難しい。予想以上の難航具合に笑ってしまうが、一軒、海が見えるちいさな部屋を、奇跡的に1番手で申し込む。無事決められた、と息をついたのはつかの間、部屋を見渡せば手元にあるのは一つのスーツケースとなぜか大好きな花を飾るための花瓶だけで、あとは洗濯機も冷蔵庫も、ベッドも洗剤も食器もない。何もない、すべて揃えるまでの体力、なんだこれ、18歳の頃に大学に進学した時のよう。違うのは、両親が居ないこと。全部、私が稼いだお金で形作られてゆく暮らしーー。

画像4

11月、やっと生活の基本が整ってゆく。カーテンが垂れ、デスクが出来、椅子にはクッションが敷かれ、ケトルや炊飯器、ベッドにシーツ、枕にハンガー。部屋にモノが運ばれるたび、諭吉が羽ばたいてゆく音が聞こえる。沖縄の海にお金って溶けてしまうのだろうか。暮らし、私のしたかった、アトリエをまるで巣作りのように。

12月、それでも上記に並行して、こなしてきた私の手では抱えきれなさそうな量の仕事と出張、カメラマンに執筆、編集、オンラインコミュニティの楽しいあれこれ、英語の勉強、それに伴う仕事、新しい出会いでの出張、執筆、撮影、運営、企画、イベント、登壇……大人気なく睡眠を削っていた日々が落ち着き、気づけば昨日の夜だった。まだ追いついていない「やりたいことたち」が手元にある。けれど深呼吸。noteを書こう、と筆をとったのが30分前。書き始めてからそのような時間が経ったか。

画像5

私がやってきたこと。現状把握、未来予測、取捨選択、決定、進行。誰しもが迫られた「変化」。私にはぜんぶ、必要なことだったし、どのみち同じことを2020年はしてきたのだろうと思う。少し、場所は変わったけれど、スペインを経由したとしても、この場所に戻ってきたのではないかと感じたりもしている。吟味。納得。私の人生に、いつも在ってほしいこと。

ふぅ。なんか、これ何が言いたかったんだろうね? 口より手が、よく話すのよ、私。おやすみなさい、年の瀬に向かう今日という夜の時間。

この記事が参加している募集

この街がすき

いつも遊びにきてくださって、ありがとうございます。サポート、とても励まされます。