散文、修行について

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記事

他者を想い祈る事

人を想って
祈る事は
やさしくない
心が
やさぐれていると
難しい
けれども
ふと涙と共に
祈りが
願いが
溢れ出す

慈悲の裾野に
洗われる
ようで
それは豊かな事
人のためと
言いながら
自分のためである
ことは普通
あまりにも
普通
そこを
超えていけた

私も人も無い
憑き物が落ちる
とはこの事
善とは言わない
ただ
歓びである
だから
祈りから始める
誰かへの
愛によって
祈りが分か

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厳しさ

厳しいと
いうことの
意が
よく分からなかった
今は少し
わかる
それは
相手の
立ち上がる可能性
潜むちからを
信じること
ほんとうの
透明な愛で
信じること
嫌われ
憎まれ
去られても
敗北ではない
傷ついても
あなたは信じた
それが
厳しさ
あなたへの
厳しさ
ひとに見えるのは
あくまで
見せかけのこと

#詩

クリシュナのこと

我が家には
神棚があって
中央には
クリシュナがいる
ひとに
あなたの宗教かと
問われれば
こう答えるだろう
他者への祈りを
わたしたちは
日々に紛れて
忘れてしまう
その祈りを
思い出させるものは
あなたにとっては
大事な人たちの
写真かもしれない
それが
わたしにとっての
クリシュナなのだ
愛だとか
祈りと呼ばれるものの
源泉に繋がる
かたちが
わたしにとって
クリシュナになったのだ


#

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利他ということ、散文

自己よりも他者のためを想って行動することーーということがここ数日のテーマなのだけど、これは別に善人になろうプロジェクトというわけでもない。
あえて言うならば、修行をしていたら、結局のところは善人になるという現象と近いところを行くことだと分かってきた、という感じかと思う。
もっと言えば、「わたしが」という意識を捨てよう…と決めると、からだが急に楽になると分かった。
そして、そうなるとむしろ、湧いてく

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グルとうた、散文

うたを通して、どのレベルに繋がるか、という話。
うたをうたうだけで、ある種の状態に入れる、何かに繋がる事ができるというのは、祝福以外の何ものでもない。慈悲や、大悲とも呼べるかもしれない。
五年修行して、今ようやくその事が見えてきたところで、その入口に至るためには、行をして身体を調えることが大前提となるわけだけど。

はやり歌でも、良い歌はたくさんある。でも、考えてみると、いわゆる大衆歌から繋が

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わたしのガラス玉、散文詩

わたしがわたしがと、
繰り返していたガラス玉を壊したら
驚くほどこの身は
温かな豊潤であふれて
氷の指先から雪解けていって

ああ あなたを愛するよりも
大事なことなんて無いのだと
ただ理解するだけのこと

わたしは仕える身
捧げたこの身はわたしのためでなく
わたしと明滅し続ける頑ななガラス玉も
献上すれば透明に星光る
金に銀に乳白色に、この手を離れて輝きゆく

誰もが夜空を駆け
虹に

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楽園の裾野、散文

自由になりたい。それがわたしの根本的な願望、欲望。
感情の整理をして取り組んでいって、それがつくづく分かった。しみじみと思い出された。

苦しい時は、自由じゃない。何に捉われているのか?
でもそう思うこと自体も囚われ、執着だ。
全部が全部そのように、ただスッパリと切ってしまうことができない。

何かを望んでいる時、逆に望んでいないような気がしてくる時がある。
意識の罠、思考の罠。どうしたら

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