日々に薄れる自分の決意、のお話。

『決意や覚悟はヤカンにのぼる湯気の様なもの』

ボクは毎朝コーヒーを淹れる。
豆を挽いてフィルターを湯通しして、
余裕があるなと思った朝はゆっくりじっくり、
急がなきゃなっていう朝はざっと手早く。

結果、家を出る時間はいつもギリギリなのだけど。

でも、どう淹れたってコーヒーの味は実はそれぞれ良かったりする。

ゆっくり淹れた朝は「今日もしっかりやろう」と思う味だし、
手早く淹れた朝は「バシバシやるぞ」なんて気持ちになる。
そんな味。


朝はいつもそれぞれ違う朝だし、
毎朝起きる自分だって、それぞれ違う自分なのだ。


ところで、
ボクは一つ悩みがある。

それは然したることはないのだけど、
「よし、決めた!」とある日思った決意や自分との約束がいつのまにか褪せてしまって、おぼろ気になり、なぁなぁになり、
決意をした自分はどこかにいってしまい、
大したこともなく、続けられない、決意をした自分にちょっと恥ずかしい、
そんな自分が戻ってくる。


そんなことがこの歳まで続いてしまうと、
いい加減に自分に飽きてしまって、
というより、怒りに近い諦めを自分にもってしまう。


あの決意を今日まで持ち続けていれば、
もしかしたら今頃はとびきりの自分になれていたかもしれない。
どうしてボクはこんな人間になってしまったのだろうと
もの悲しい朝もある。


もの悲しくなるっていうことは、自分に
どこか未だ期待しているっていう切ない証なのだけど。

きっとみんなは、多くの人は、
自分のした決意に愛情をもって日々肝に銘じているのだろうと、
人と比べて情けない気持ちになる夕暮れもある。


ある朝、コーヒーを淹れるために沸かしたヤカンを
ぼんやりと眺めていたとき、注ぎ口から立ち昇る湯気は
まるで自分の「決意や覚悟」そのものだなぁと思ったのだった。

勢い良く立ち昇り、熱く、目に見える。
でも、そのまま中空に消え、熱も失う。
その立ち昇る湯気に喜び消えゆく姿を憂い、
「元の形に戻っただけさ」とうそぶく。強がりなのだけど。

でも、ちょっとだけ分かったこともあった。
決意そのものはそんなに大事じゃないってこと。

決意ってのはきっと一つの現象。
大事なのはその現象を起こす水とそれを沸かす火じゃない?

決意を大事に出来る人っていうのは、
きっとその決意という湯気がずっと見えるように
水を足し、火をくべている人なのだ。

大事なのは、湯気を立て続けてられる、
そういうことだよね。

ゆっくりの朝も、
慌ただしい朝も。

今日も湯気を立てて、朝に家を出れば、
それで良いじゃない。


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