写真は私を盗む

 街でスナップショットを撮ることが問題視され始めたのはこの数年のことだ。その際にキーワードとなるのはもっぱら肖像権である。なぜ人々がこれほどまでに撮られることに対して一定の嫌悪感を示し始めたのかについては、顔認証システムが発達したFacebookを中心とするSNSの在り方を振り返れば理解できることがある。

 かつてスーザン・ソンタグは「多くのひとが、写真を撮られる段になると不安になる。未開人のように、犯されはしないかと思うのではなく、カメラに気に入られるだろうかと心配なのである」(※1)と記したが、それから時代は明らかに変化し、むしろ人々はいままさに「写真に犯される」実感を確かめているところだ。人々はカメラに気に入られることよりもまず、その写真が撮影された後、どのように利用(もしくは悪用)されるのかという漠然とした不安を瞬間的に抱くようになった。その公開処刑の具体的な場としては、FacebookやInstagramが挙げられるだろう。

 テクノロジーの発展は写真から人々の顔を認識する技術を現実化させ、初見の人であってもその人物の顔が写り込んだ写真をネット上にアップすれば、よほど意識的に自分の顔を〝管理〟してきた人でもない限り、人物の特定にさほど時間はかからなくなった。だからもしかすると人々の素性が偶然性を孕んだスナップショットによってたちまち露わにされてしまうことだって起こりうる。中でもFacebookは、それまで匿名性の高い世界にあったインターネットにおける非特定多数の利用者たちの素顔を恐るべきスピードで〝顔図鑑〟として収集していった。結果として、ネット上における肖像権の問題はFacebookの顔認証開始に端を発し、ネット上での個人情報流出問題が議論を呼んでいる。

 ここで言いたいのは、人がレンズを向けられた時、自らをアノニマスな存在であると認識していたうちは、少なくとも自分は風景の一部なのだと黙認できていたことが、近年においてはまるで顔というIDを無許可でスキャニングされるかのような感覚を人々が覚え始めており、そうした感覚をもって人々はいよいよ「写真は私を盗む」と理解しつつあるかもしれないということである。究極的に写真とは、その所有者が意のままに操ることができるものであり、写された者はその従者であるという仕組みが、ここにきて悪意のあるものとして捉えられつつある。そのことはとりわけ自己主張に消極的な国民性を持つ日本において顕著に見られることかもしれないし、あるいはいかなる国の人々にとっても、実は心の中で一定の疲弊感を抱かせるものかもしれない。とにかくカメラはより高性能となり、かつては一部の職人の特権であった修正も容易くなった。誰でも簡単に顔のパーツを大きくしたり、肌を美しく見せる仕組みを手に入れた現在(すなわちカメラが無条件に所有者を気に入ってくれる現在)、カメラが自らの手中にあるうちは意のままに嘘をついてくれる気持ちの良い相棒として活躍してくれるが、ひとたびその支配権が他人にわたると、情け容赦なく自分を傷つけるということを人々はよく理解するようになった。

 深瀬昌久の言葉に次のような一文がある。

「写真を撮るという行為には何か後めたい部分があり、スリをやったこともないが、多分スリのようなスリルと快感があるのは否定できない。撮るは盗るだから、ぼくはわるい奴なのだろう」(※2)

 このような写真の持つ暴力性と後ろめたさを撮り手自身が認識しているうちは、多少はコントロールが利くかもしれないが、ひとたびそれを忘れて没頭してしまうと、たとえば今年に入って起きた、日本写真の第一人者である写真家とそのモデルにまつわる悲劇が生まれてしまう。それは、写真は人からなにかを奪ってしまう存在であることを改めて私たちに突きつけた。しかしどうしようもなく厄介で遺憾なことに、得てして撮る側には、一定の善意をもって撮影し、それを利用するのだという意識があるものだ。ここで、撮る側と撮られる側の間には大いなる溝が生まれるものだということをよく認識しなければならない。撮る側の「愛」や「情」といった大義名分が時として誰かを大いに傷つけているかもしれない。これはなにも他者間だけではなく、家族や親友の間においても考えるべき事柄だろう。

 SNSを中心とした世界は、人をいとも容易く視野狭窄に陥れるしまうものである。たとえば友達の領域にあるとも言えないような、それこそ〝顔を知っている〟程度の人とのツーショットをSNSにアップにする前に、その行為が自己顕示欲を満たすためでないかをよくよく考える必要がある。もちろん彼/彼女に掲載の許諾をとることは当然のことながら、万が一に許諾がとれたとしても、それが相手にとって断りにくい場面ではなかっただろうか、そしてそれをネット上にアップすることによって相手の一部分でも奪ってしまうことにならないだろうかといったことを少しでも考えてみることは、少なくとも現在において配慮すべき事柄だろう。というのも、一般的に他人の写真を利用する行為そのものが相手にとって得になるケースがそもそも稀だからである。

 写真が「共に過ごした記録」であるうちは、撮る側にとっても撮られる側にとっても天秤のバランスがとれた微笑ましいものであったが、ここにきてそれが撮る側の利益に傾きつつあることを理解しなければならない。撮られた側がそれを悪意と捉えた時、写真が長年かけて築き上げてきたひとつの神話はいとも容易く崩れ去る。後戻りできないほど破滅的な状況に追い込まれる前に再び考えなければならないのは、ではどうすれば被写体となる人々からなにかを奪うことなく自らの視座を写真として提示できるのかということだ。

 ここにきて希望を見いだせることとして、現在という時代を活躍の場とする写真家たちが「人々の匿名性」を切り出し始めている事実が挙げられる。それは山谷佑介や細倉真弓らの肖像写真において確かめられるだろう。あるいは被写体となる人々を前面に押し出し、撮る側の存在は一歩後ろに引くといったスタイルでも健全さを取り戻すことはできる。この場合、インベカヲリ☆や石川竜一が連想できる。最もこの場合、被写体に自分自身を重ねているから可能となる危うい駆け引きが介在しているとも言え、ここにおいて肖像写真のスリリングな出で立ちは今後も健全に顕在し続けるのかもしれない。

※1……スーザン・ソンタグ「写真論」晶文社
※2……深瀬昌久「烏—終章 撮影記」『カメラ毎日』1982年11月号

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