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この表現うまい。「街の名文」に嫉妬する #路上文藝 015

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スイスイと

乗って

ぶつけて

裁判所

最近撮った「路上文藝」では、これ、とくに好きなんです
人生が急転直下して終わってゆく様子がまさにスイスイとテンポよく描かれる
「文章のカット割り」がうまい。

ライターは「文字単価」だと、どうしても表現が冗長になる傾向にあります。
一文字でも増やして、目先のお金がほしい。

けれども読者の想像で補える部分は「みなまで言うな」とばかりにさくっとカットした方が、やっぱり読んでいて気持ちがいいです。

「警察」ではなく「裁判所」なのもリアル
民事かよ、不介入かよ、っていう。

ちなみにこの看板、裏を観れば――。

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決して裁判費用一千万円をトクしてたわけではないのに。まして宝船を出航させるほどでも。
それなのに、有無を言わせぬ説得力がありますね。

さて「#路上文藝」15回目を数えました。
今回は「路上文藝とは結局なんなの」について書かせていただきます。

「#路上文藝 」とは街の「いい文章」を見つけ、味わい、名も知らぬ文学者たちをリスペクトする運動を意味します。

もともと散歩をするのが好きでした。
さらに歩いていて「あれ?」と目に留まった看板があればカメラにおさめていたんです。

屋外の気になる物件を撮影や記録する行為、これを「路上観察」といいます。
マンホールだったり、無用階段であったり、商店街のアーチ、案山子、味わい深い手描きロゴ、京都名物「いけず石」などなど、趣味で撮り集めている路上観察家は、たくさんいます。

そして路上観察の多く、というかほとんどすべてが乱暴にまとめるなら「デザイン」「アート性」を愛でて、慈しむもの
ときに意図せず誕生した街のアートを尊重してゆこう、そういう運動です。

しかし僕はライター。
デザインは門外漢。
審美には自信がない。

ですので「もっと文章を鑑賞する路上観察があってもいいはず」と考えたんです。

街をめぐっていると、ふと「お?」「お!」「お……」と二度見、三度見してしまう言葉に出くわします。
名も知らぬ文学者たちの筆によるパッショネイトなパンチラインに、ない後ろ髪をひかれてしまう。
丸裸な言語感覚が新鮮で、物書きのはしくれとしてジェラシーを覚える場合も多々。

「路上文藝」という呼び名は、学会まで存在する路上観察の人気ジャンル「路上園芸」から完全にイタダキました
そうして昨2020年12月からInstagramで「#路上文藝」というタグで展開しはじめたのです。

仕事や用事で外出する際「1時間は早く目的地に着き、用事が済めばそこから帰宅を1時間のばし、街を歩く」と決め、首からカメラを提げて文章を探します。
それこそ「街の文字、ぜんぶ読む!」つもりで。

街の言葉を意識して歩くようになって以来「いやあ、こんなにも名文を読み落としていたのか」と戦慄をおぼえました。これまでの歩行態度を後悔するばかり。

看板、貼り紙、街の「いい言葉」たちが誰のカメラにおさまることもなく、今日も日本のあちこちで非情に撤去されているのでしょうね
実際「このあいだ、あそこにおもしろい看板があったよ。撮ってみたら」と勧められて訪れてみると、そこには「もうない」
そんな胸が痛む経験が今年だけで8回ありました。
名文がその場に刻まれていた証しもないままに

「言葉が消える前に画像として保存しなければ!」

誰に頼まれたわけではない。
なのに使命感に駆られ、街で名文を見つけるたびにInstagramにアップする。
およそ3か月これを繰り返すうちに、だんだん数が増えてきました。
「ならば」と、インスタから画像を抜粋。noteでも見ていただきたい、そう考えた次第なのであります。

「路上文藝? それ、ただのVOWじゃね?

そう言われたら顔を真っ赤っ赤にして、あたふたする以外ありません
ただ9割8分VOWと同じでも、異なる点がふたつあります。

ひとつは

●おもしろくなくてもいい

決して、笑える言葉を追っているわけではない。
まして「嗤いたい」「嘲笑いたい」わけでは断じてないんです。

とくに警告看板が掲げられる背景には、痛ましい事件や耐え難い不快があるわけです。
怒りや悲しみが文字になった事情に思いを巡らせれば、嘲笑できるはずがない。

ただ、それでもひとたび言葉が心に響いたならば、シャッターを切らずにはいられない
ときにスイスイ「ぶつけられる」ように意表を突かれ、立ちすくむほど強い「訴え」に出くわすケースもあります。
けれどもそんな言葉に殴られているとき、僕はとても気持ちがいいのです

そして反対に、

●わざと笑わそうとしている言葉にも乗っかる

VOWをはじめ路上観察は全般に無意識の美学が貫かれています。
天然の昭和レトロはいいけれど、「わざとレトロ」はちょっとね

市井の人々の無意識から誕生したデザイン、風雪にさらされた時間が生みだす偶然のアートこそ路上観察の醍醐味。

僕もこれまで、プロのコピーライターが「キてるでしょコレ」とプレゼンしてくる聡いキャッチコピーは「人工」「養殖」の香りがして受け付けなかった。避けていました。

でもですね。
そういうプロの手によるキャッチフレーズも、もう乗っかって楽しみたい、それが現在の気持ちです。

お気づきでしょう。
「商店街に店がない」現状を。

アーケード商店街の多くがシャッター通り、ゴーストタウン化しています。
都市の一極集中で、郊外から人の姿が消えている。
さらにコロナが追い打ちをかけ、おろされる看板はあっても、新しく掲げられるケースは少ない。
街から言葉が消えてゆくばかり。

人が頭をひねって生みだした言葉の温度が街に残っている、遺っている、それだけでも、もう貴重で稀少。
ありがたい。
明日にも消える可能性が高い「街に言葉があった風景」を記録しておくべき、そうと思うんです。

さすがに笑わせる気過剰なあの「高級食パン」看板の数々は撮れません。
それでも、そこに人がいた限り、嫌いにはなれないんですよね

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#路上文藝とは「街のいい文章を見つけ、味わい、名も知らぬ文学者たちをリスペクトする運動」を意味します。

#路上文藝 014 誰の目にも映えない日々を生きる

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画像は「縦」「引き」「アップ」でも撮影しています。

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