今はもういない祖父とのこと
こんにちは。
友達が命について書いていたので自分も今は亡きじぃじとの思い出を綴っていこうと思う。
じぃじは8年前にこの世を去った。
たくましくて優しい、誰よりも愛に溢れたおじいちゃんだった。
僕が小さい時、じぃじはよく僕をおんぶしてくれた。
じぃじの背中は大きくて温かくていつも押し入れのような匂いがした。
良い匂いかどうかはさておいてなんともクセになる匂いだった。(笑)
じぃじは僕が小学1年の時に胃がんになり、小学校を卒業するまでの6年間、必死にがんと戦っていた。
がんと診断されてからも、変わらずに僕の遊び相手をしてくれた。
キャッチボールにサッカー、お風呂場での水遊び、色々やってくれた。
しかし、じぃじのがんが悪化するにつれて、遊びの数が徐々に減っていることに僕は気づいていた。
じぃじが亡くなる何年か前のクリスマスの日、僕は友達と一緒にイルミネーションを見に遊園地に行った。
その日、じぃじは病室で、自分の指に付けられている赤く点滅した測定器を見て母にこう言ったそうだ。「ほら、じぃじのイルミネーションもきれいだよ」と。
僕はこれを聞いた時、涙が出た。
この時じぃじはどんな思いだったのだろうか。
辛かったに違いない。病気から逃げたかったに違いない。
ふと思えば、じぃじの涙を僕は1度も見たことがなかった。泣いたことがないわけではない。僕たち家族を悲しませまいと強いおじぃちゃんを演じていたのだ。
お見舞いに行く度にじぃじは僕に、病院で出たデザートをくれた。ゼリーにプリン、お菓子もあった。
嬉しかった。
だけど、病院の匂いや雰囲気が苦手だった僕が、家の冷蔵庫に溜まっていくじぃじのデザートに自ら手を伸ばすことはなかった。
今思えば、食べずにわざわざ持ってきてくれた優しいじぃじの愛情を存分に味わっておけば良かったと後悔している。
一時退院が近づいたとある日の朝のこと。誰もいない病室で1人でパジャマを脱ごうと立ったじぃじはバランスを崩し、そのまま床に倒れてしまった。その時、じぃじの右足の大腿骨は粉々になった。
それから何ヶ月か経ってじぃじは、72歳の誕生日を迎えた。みんなで写真を撮った後、僕はじぃじと握手した。あの時の左手の感触は今でも鮮明に覚えている。
その一週間後、じぃじは骨折したまま永遠の眠りについた。
亡くなる直前、僕がじぃじの手を握るとじぃじは強く握り返した。こんなにも力が残っているのかと疑うほど強く強く握っていた。がんに抵抗していたのか、それとも残された僕たちに何かを伝えようとしていたのかは未だにわからないが、あの時の手のひらの燃え上がるような温もりを僕は一生忘れない。
僕はお葬式でじぃじ宛に書いた手紙を読み上げた。男らしく最後まで力強く読むつもりだったが、気づいた時には顔も手紙もびちょびちょだった。みんなもそれを見て泣いていた。お坊さんまでもが感動してくれた。僕の思いはじぃじに届いていたのだろうか。
じぃじが亡くなった時、僕は心に2つ決めたことがある。
1つは、じぃじからもらった沢山の愛を少しずつばーばに返していくこと。
ばーばは今年、77歳、昔と比べれば静かだが、相変わらず笑顔の絶えない優しいおばぁちゃんだ。僕はそんなばーばが大好きだ。
もう1つは、じぃじが見た景色を僕も見ること。
じぃじはかつてJRAの職員として競馬場で懸命に働いていた。
じぃじが亡くなってから自然と僕はJRAの職員を目指すようになった。今年20歳を迎える今でもその夢は変わっていない。
決して簡単に叶えられる夢ではないけれど、心の底に誰にも負けない強い思いがある。
じぃじが毎日どんな思いで仕事をしていたのか、何をやりがいに30年以上、弱音も吐かずに一生懸命勤めてきたのか、どうしても知りたいのだ。
僕は今年からアルバイトとしてではあるが、競馬場で働けることになった。いつか職員として働けるよう少しでも爪痕を残すつもりだ(笑)
僕は重大な選択を迫られた時にはいつもじぃじを空に思い浮かべる。「じぃじが生きていたらどっちを選べと言うだろうか」と考えるのだ。
生きていたらきっと「自分で選んだ道が正しい選択だよ」と言うだろうけど、そう考えることで、自分が出した決断に自信を持つことができるのだ。
生きていく中で辛いことや悲しいこと、自分の思い通りにならないことは誰にだってあるだろう。だけど、壁にぶち当たる度に自分を鼓舞して、人の為に、自分のためにできる最大限の努力をすること、それが残された僕たちに与えられた使命なのではないだろうか。僕はこれからも辛くなった時にはじぃじを思い出し、生きていることに感謝しながら、自分らしく1つ1つ乗り越えていこうと思う。