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生長の家が自民党と対立している理由

 最近、日本学術会議の会員任命拒否について生長の家が抗議声明を出したことにより、再び生長の家と自民党の関係が注目を集めています。

 私としてはむしろこの問題で産経新聞が生長の家を名指しで非難したことに仰天しました。大手マスコミが政府に逆らった宗教団体を糾弾するとは、一体、いつの時代の話でしょうか?怖ろしいものを感じます。

 私は日本学術会議という組織を全面肯定は出来ませんが、今の自民党政権や産経新聞の動きには恐怖しか感じません。これが「先例」となると、今後、政府に逆らった宗教団体がマスコミの攻撃にされされるようになり、信教の自由が有名無実化するからです。

 それはともかく、これを受けて「生長の家はかつて自民党を支持していたが、今は対立している」ということを知った方は少なくないようですが、その経緯や理由までご存知の方は少ないのではないでしょうか?今回はそれについて説明します。

戦時中から終戦直後の生長の家の立場

 大東亜戦争降伏後、生長の家は政治的には難しい立場に晒されていました。

 生長の家は戦時中、当時「準国歌」的扱いを受けていた「海ゆかば」に対する反対運動を行った結果、憲兵や特高による激しい弾圧を受けていました。当時の生長の家の理事長は、憲兵の取り調べで気を失いかけ

「私は軍人が嫌いです!」

と、軍人の奥さん相手に言う程でした。

 これは生長の家が左派的であったから、というよりも、当時の軍部や内務省による言論統制があまりにも常軌を逸していたからです。生長の家自体は当時も今も保守的な教義の団体です。

 戦前の生長の家初代総裁・谷口雅春先生の文章には、次のように内務省による思想統制を非難しています。

現代は非常時であるので、政府が信仰を監督し、政府の見解によって、存在してはならないと思わるる信仰団体は、どんなに大きくとも解散を命じなければならぬような危急の場合である。斯かる時代に於ては、政府は明瞭に、「斯くの如きは不敬思想である」「斯くの如きは不敬行為である」と明瞭に何人にも眼に触れるように発表して置いて貰いたいものである。また不敬と誤解されるような懸念のあるような思想又は行為に対しては、「当局の見解は斯うであるから、ここをも少し、斯う云う風に変えたらどうか」と云う風に予め注意を与えて置いて欲しいものである。(谷口雅春『生命の実相』「神道篇」昭和16年9月発行版、216~217頁、字体・仮名遣いは現代風に改めた)

 これは、言い換えると「どういう行為が不敬行為であるか」も明確にせずに、政府が宗教団体を解散させていた、と言うことです。

 生長の家は「天皇絶対」を説く保守派の宗教である一方で、欧米のユニテリアン教会の系譜を引くニューソート(光明思想)の団体であるという一面もあり、戦前・戦時中においては後者の側面は激しく弾圧され、前者の部分のみが強調されました。

 そのことが戦後になると却って足枷となります。GHQによって谷口雅春先生が超国家主義者に指定されたからです。

初期の生長の家の政治方針

 しかし、戦前から政府に対して「もの言う宗教」であった生長の家は、占領下でも「全国精神主義者連盟」という政治団体を結成し、政治活動を行います。

 その綱領には「吾等は天皇制を護持し、民の心を大御心となし給う」といような保守的な文言もありますが、一方で

・天皇と民草との間に如何なる封建的介在をも許さず

・日本国内に一人の不労利得者もなからしめん

・貴族、華族、元軍人等の年金恩給等を奉還

・男女両性の協力調和

といった文言も明記され、当初は保守政党とは距離を置いていました。

 しかし、冷戦の進展と独立の回復により政治情勢が一変し、55年体制が確立するようになると自民党初代総裁である鳩山一郎首相が生長の家信徒であったこともあり、自民党に近い立場を取るようになります。

 もっとこの時点では選挙では自民党を支援せず、むしろ社会党の浅沼稲次郎先生も生長の家信徒であるなど、生長の家が明確に自民党の支持母体であるとは言えない状況でした。

生命尊重運動の進展と生長の家政治連合の結成

 一方、戦後になって『優生保護法』が制定され、「いのちに線引きする」思想である優生思想が公式に国家の正当な思想として採用され、『(新)らい予防法』を始めとする優生思想に基づく立法が推進され、中絶についてはむしろ政府によって推奨されるなど、単に敗戦に起因する人心荒廃のみならず、政府の主導による「生命軽視」の風潮が見られました。

 これを受けて、生長の家は学生運動家の暴力や凶悪犯罪も、すべて霊的な意味では政府が生命軽視の政策を推進していることが理由である、と主張し、「反優生学」「生命尊重」を掲げてカトリック教会と共に『優生保護法』廃止運動を推進しました。

 クリスチャンの産婦人科医である菊田昇医師が堕胎で殺される赤ちゃんを救おうと、中絶を検討する妊婦さんに事実上の内密出産を行って『医師法』違反の罪に問われた「菊田医師事件」では、無罪を求めて社会運動を起こすとともに、菊田医師の主張した『実子特例法』の実現に取り組みます。

 もっとも、菊田医師自身は生長の家でもカトリックでもなく、プロテスタント教会の信者で思想的にはリベラル派でした。この問題においては、本来ならば菊田医師と思想的に近いはずのリベラル派団体が「中絶への規制強化に繋がる」という屁理屈で『実子特例法』制定に反対すると言った「捻じれ現象」が起きており、生命尊重派とリベラル派とがお互いの矛盾を攻撃しあう、党派対立の様相を呈するようになってしまいました。

 この問題の背景には、中絶を利権化するだけでなく、思想的にも優生学に染まっていた日本医師会が、一方では自民党内部の生命尊重派の議員に圧力をかけ、もう一方ではリベラル派の「プロ・チョイス」と言う名の「アンチ・ライフ」勢力を扇動していたことが大きいです。

 こうした流れの過程で生長の家は政治への影響力を高めるために生長の家政治連合(生政連)を結成しました。生長の家政治連合は自民党の支持母体となりましたが、彼らを待っていたのは医師会勢力との自民党内での権力闘争でした。

生命倫理問題で自民党と訣別

 生長の家は1983年に生長の家政治連合の活動停止を決定、以降自民党との公式な関係を断絶します。その時の機関紙『聖使命』においては、次のように理由を示していました。

 生政連は、生長の家人類光明化運動の重大テーマである日本国の実相顕現という立場から、政界に真理を反映させるべく、昭和三十九年に結成された。以後、今日まで、建国記念の日の制定、元号法制化等、多大の成果を収めてきた。
 しかし、結成のそもそもの動機となった優保法(引用者註:優生保護法)改正への道は険しく、生命尊重の気運を国民の中に醸成することに成功はしたものの、あと一歩のところで目的を達し得ず、吾々の政界における力不足を強く感じさせられた。又生政連そのものの組織的欠陥や運用上の問題点も指摘され、反省すべき点も数多く見られた。
 加えて、今回から突如参院選に導入された「比例代表制」により、生長の家の従来とって来た独自の選挙活動や国会内における活動が著しく困難となった。それは、同制度が政党主導型のものであり(引用者註:当時の比例代表制は現在とは違い、政党が順位を決定する拘束名簿式)、そこに代表を送り出した支持団体の意思や実力が正しく評価され難いからである。現に、百万票以上の集票能力をもつ生長の家が推した寺内候補が、落選の憂き目を見ることになったのは、主として政党側で一方的に決定した名簿登載順位のためである。(「生政連活動停止の決定」『聖使命』昭和五十八年八月十五日号)

 生長の家の政治活動としては元号法制化が今でも注目されていますが、本来の目的は優生思想への反対であり、生命尊重でした。しかし、生長の家政治連合が自民党と一体化するにつれ、本来の目的が疎かになるばかりか、逆に生長の家の方が“自民党化”する事例もあったようです。

 当時の機関紙には生長の家とカトリック教会が主導した『優生保護法』廃止運動に対して、自民党がどのような対応を行ったかが記されています。

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