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変わらない場所

今年の春ごろから私は自身の健康維持を目的に市内をウォーキングすることを日課にしているのだが、その間に気づいたことが二つある。まず一つは十年前と比較して中華&アジア系の料理店が増えたように思う。それだけ外国人居住者が増加したのだろう。そしてもう一つは以前のぼんやりとした想像とは違って実際には宗教施設が至る所にあるということだ。果たして日本人は無宗教が多いと言えるだろうか?

それとは別に、ちょっとしたきっかけから私は松本清張の小説を最近読みだすようになり、とりわけ彼の古代史や民俗説話に対する深い見識に影響を受けるようになった。それ以降私は自分が住んでいる土地の郷土史や、あるいは『古事記』『日本書紀』のような日本の古典を読むようになったのだ。

もともと外出時に神社に立ち寄る事は時折あったのだが、それらの書籍を読むようになってからは意識的に各地の神社を参拝するようになった。とはいうものの、私は今も昔も無宗教だし今後自分が信心深い人間になるというイメージも正直わかない。そうではなくて、私は各地に古くからある神社が地域に暮らす人々の精神的な支えになってきたその事実に関心があるのだ。

少し視点を変えてみよう。繁華街を歩けば様々な広告を目にする機会が多くなるのは我々にとってごくありふれた現実だ。都市空間は数えきれない情報で溢れかえっていて、おそらくそれは高度に発達した資本主義社会においては理想的な都市の在り方なのだろう。時代が変われば自ずと大々的な広告を打つ有力企業も変化していくはずだし、それはビジネスの新陳代謝が社会において促進されていることの一つの証左であると言って良い。

しかしながら、時に人はそういった情報だったり資本主義の潮流とは心理または物理的に距離を置きたいと感じるものではないだろうか。それゆえ人は時間を作って大自然を満喫できる環境に身を置こうとしたり、あるいは神社に参拝することで普段の時空間とは異なる静謐な空間を意識的であれ無意識的であれ体感したいのではなかろうかと今の私は思ったりする。人は時流に流されないその同一性を求めて神社に参拝しているのかもしれない。そしてその同一性はとりわけ地域の人々の心の拠り所になるだろう。

私は自分自身を保守的な人間だとは認識していないが、このように考えていくと保守思想も魅力的なものだということがわかってくる。差異を重んじるリベラルな考えと同一性を重んじる保守的な考えが自分のなかで上手く両立できれば良い。いずれにしても、私はこれからも神社には参拝するつもりだ。