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型と言霊

西洋人と日本人の古典芸能に関する認識の違いは何だろうか。世界各国で様々なルーツを持った俳優たちが、ソポクレスやシェイクスピアの悲劇をその国の言語で上演していて、そのことについてアテネ在住で文芸に精通しているギリシャ人に先日メッセージで尋ねてみると、ギリシャ悲劇が外国語で上演されることは彼女はもちろん一般的なギリシャ人の価値基準に照らし合わせても光栄なことらしい。翻って、ギリシャ語やドイツ語で能楽や歌舞伎を演じる当該国の役者たちの舞台の存在を、日本人である私は寡聞にして知らない。

その違いはどこから生じたのだろう。日本の古典は世界的に有名なはずだし、日本古来の芸能の形式が他国に普及してもおかしくはない。その様に考えたうえで、私が現時点の浅学菲才な知識から思い当たる西洋と日本の芸能の相違点は、名跡と言語観だ。

日本の場合、古代日本の部民制(物部氏、膳氏、忌部氏など)から既に各氏族が特定の職務を管掌していて、それが後に名跡や屋号、暖簾分けといった家業に基づく概念につながったと考えるのは論理の飛躍だろうか。

もしある芸能者が鍛錬の結果、独創的な芸風を編み出したとして、初代何某を名乗るとする。そしてその初代が弟子を取った場合、師匠の芸の型を時間をかけて門弟に伝授すれば、その形式は次の世代に継承され、二代目の同名異人になることが許される。この系譜は初代の芸風の型が(少しばかり付け足しはあるにせよ)後代に脈々と受け継がれ再現される限り、それぞれの時代の観客は大昔の形式を鑑賞できるようになる。

少し話は逸れるが、技術職である職人の長期修行の必要性について、近年インターネットを中心に話題になっている。確かに合理的に考えると、例えば料理の食材は「物質」なので適切な手順でレシピ通りに作れば味の再現性は高いはずだし、長い間下積みをする必要はない。ではなぜ職人の間で修行が重んじられるのか。それは修行先の暖簾、換言すれば文化的ブランドに関わると私は推察する。

ある若い職人がいたとして、その人としては何とかして競争相手との差別化を図りたいとする。その様な理由で、彼または彼女が歴史と格式がある御店に修行にいって職人としての箔をつけようとするのは理に適った選択である。老舗側もそれを承知で彼らに下積みをさせる。それが連綿と続いてきた店の伝統だし、職人も長く修行をすることで有力なお客の知己を得ることが可能になる。あくまで私の勝手な想像だが、このように考えてみるのも面白い。日本社会では由緒ある名跡や屋号が重要なのだ。

言語観について、私は基本的にドライだと自覚しているけれど、それでも『萬葉集』のおかげで日本の言語観を解明する糸口を掴んだような気がする。

仮定の話が続くが、仮にある人が「日本の伝統芸能の台詞がよくわからないので全て現代語で発話して欲しい」と要望したとしても、多くの日本人はそのことに違和感を覚える可能性が高い。それは結局(無意識レベルかもしれないけど)多くの人が言霊の力を実は信じていて、日本古来の言葉を保全する事に肯定的だからだと私は考える。それゆえ、古文不要論に対して敏感に反応する世論が形成されるのも今の私には理解できる。実際私のように言語に関してドライな人ほど、和歌から学ぶことは多いと思う。

ご存じのとおり、現代はインターネットが世界的に普及し、グローバルに多様な人々が関係する時代である。そのような時代において、自由社会ではリベラルな価値観が基本的に称揚されるし、されるべきだと私は思っている。新しい時代の価値基準のもとで、これまで幾重にも重なってきた日本の歴史ある文化をどのように捉えていくかが問われているし、私としては伝統の中にも幾分かの柔軟さは必要ではないかと一人の日本人として感じている。