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利他心について

「何ごとでも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(イエス)

このキリスト教の「黄金律」とほとんど同じ内容が、他の三大宗教である仏教や儒教にも中心教義として見出されると、竹内均は『「修身」のすすめ』(1981年)で述べている(39頁)。

「他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない」
(ブッダ『真理のことば・感興のことば』中村元訳、岩波文庫、1991年、179頁)

「己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ」
(孔子『論語』金谷治訳注、岩波文庫、1999年、315頁)

要するに、ここで説かれている内容は「利他心」だ。
この「利他心」を、人間に普遍的な「道徳」の本質として話を進めよう。

ローレンス・コールバーグは『道徳性の形成』(1969年)で、人間の道徳性の普遍的な発達過程を6段階に分けた。
つまり、①服従と罰への志向、②素朴な自己中心的志向、③良い子志向、④権威と社会秩序の維持への志向、⑤契約的遵法的志向、⑥良心または原理への志向である(邦訳44頁)。

これに対し、弟子のキャロル・ギリガンが『もう一つの声』(1982年)で、コールバーグの「公正」の観点から見た道徳発達理論は男性中心的であると批判して、女性的な「配慮と責任」の観点から別の道徳発達理論を提唱したこともよく知られている。
いずれにしても、コールバーグもギリガンも、人間は成熟することにより「利己心」から「利他心」へ移行すると説く点では共通である。

しかし、ここで一つ疑問が生まれる。
本当に、「利他心」は人間の発達過程の最後に現れるのだろうか。

むしろ、人間は誰でも、発達過程の最初の時点で「利他心」を持っているのではないだろうか。
つまり、本来人間は「利他心」を持って生まれ、物心ついて「利己心」に囚われ、やがてそこから解放されて再び「利他心」に戻るのではないだろうか。

例えば、貧しい家庭の母親が子供に「何でも欲しいものを買ってあげる」と言っても、子供は「お母さんのために何も欲しくない」と言わないだろうか。
また、弟や妹ができた時、たとえ幼くても子供は誰に言われるでもなく庇護感情を持たないだろうか。

さらに、たとえそれがミラーニューロンの働きだとしても、動物の中にも「利他心」の現われを見ることができる。
例えば、鳥が魚に餌を撒いたり、母ライオンが助からない子ライオンの頭部を優しく飲み込んで窒息させることなどはその実例のように思える。

右脳は「分けない」という点で「利他心」に、左脳は「分ける」という点で「利己心」につながると考えれば、これは言語の獲得に至る人間の心身的発達過程とも重なる。
つまり、言語の芽生えと自我の芽生えはパラレルであり、自他が分離するから「利己心」も成立すると考えられるのだ。

「七歳までは神の内」、という古いことわざが思い出される。
おそらく、一者から分有されたばかりの幼子には天界の利他心が残っているのではないだろうか。

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