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必要の無い電気をつける僕。灯りとの付き合い方を考える。


会社の給湯室。廊下を伝う外光で軽作業をするには問題のない明るさである。けれど気付けば僕の右手は半自動的にスイッチを二つも押す。一つは給湯室全体。もう一つは流しの手元の明かり。

そりゃあもちろん明るくなって手元が見えやすくなるのだが、消してみると別にそれでも不自由しない。

先日の台風でも同じ千葉県の方々が停電に苦しまれていたのを思い出す。そうすると、どれだけ贅沢にものの1.2分の滞在の為に煌々と明かりを灯していたかと情け無さと己の軟弱さを感じた。

豊かであるがゆえの無思考になる機会は多い。全てが世の中の豊かさのせいではないが…

今読み返している谷崎潤一郎先生の陰翳礼讃にはこんなニュアンスの言葉が要所に出てくる。
「煌々とした灯りが日本特有の美的感覚や感性を奪った」と。

部屋の隅々まで白々しく照らすオフィスの照明にはある種の傲慢さを感じる。本当に必要なのかと言うほどのチクチクとする色と光量。一本でも蛍光灯が切れると暗くなったと騒ぎ立てる人たち。

大規模建築の事はよく知らないが、住宅建築では採光計算というものをして室内が自然光によって一定の明るさを確保するように基準法によって定められている為(好きになれない基準の一つ)、余程近接した建物があったりしない限り、極端な話日中は電気を付けなくてもいいのだ。

ましてやビルの高層階のオフィスなどは北側であろうとも安定した光が入るのだから、日中は自然光で、夕方になったら各々のデスクに行灯でも灯して過ごしたら、サラリーマンのストレスが減ったりするのではないかなんて事を考えてしまう。(目が悪くなる云々は専門の人に任せるとして)

少し話が離れたが、自分自身の感性を高める為に『灯り』との付き合い方を考えてみようかななんてことを考えながら、急いで給湯室の電気を消してみた。


余談ですが、トップの写真は昨晩の入浴時に蝋燭で明かりをとった時のもの。いつもは垢や髪の毛が浮く水面に美しさなど感じるわけもないのですが、蝋燭の火に揺らめく浴槽の水面はとても艶やかで美しかった。
半年前のリフォームで浴室と浴槽を黒にしたのが功を奏したのかなと喜んでおりました。

ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^