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純粋に生きる為の不幸こそ、本当の生きがいなのだと覚悟を決めるほかない。



読書は面白いもので、必要な時に意味のある言葉が目に入ってくる。
きっと深層心理で「それ」を求めているからなのだとも思う。

タイトルの

純粋に生きる為の不幸こそ、本当の生きがいなのだと覚悟を決めるほかない


は僕の言葉ではない。

一昨日から読み始めた、岡本太郎さんの「自分の中に毒を持て」からのワンフレーズだ。



生きる事。
自分である事。
幸せとは。

そんな事を岡本太郎さんの人生経験から生まれる見解で書かれている。

まだ読み終わってないが、この一文が妙に心に刺さった。


特に、

「純粋に生きる為の不幸」

という言葉が妙に痛快だ。

確かに最近の実体験として「純粋に生きようとした時の弊害」に出逢う事が多かった。だからかもしれない。




少し話は変わるが、幸せという言葉から連想される事は大きく2つあるように思う。

1つ目は、「富や名声、地位や権力」を我慢の果てに手にする事。又は物質的な所有量を指す。
2つ目は、「自分らしく純粋に生きた」場合を指す。

そんな風に思う。

そして両者には一定の努力や我慢が必要なはずだ。

けれどこの「努力や我慢」の毛色が違う


なんと言えばいいか、

「承認欲求を満たす為」か「自分を使い切る為」

かに分かれる気がするのだ。

結論から言うと、僕は後者を選びたい。
けれどその時に生じる「不幸」から目を逸らして、それっぽく過ごしていた。だからこそ先の一文を読んだ時に、心にグサッと刃物を突き刺された気がした。
自分でも薄々気付いていたから。


「幸せになる」と言った時は、頭の中にはお花畑が浮かぶけれど、そこへ行き着くには、いやそこに今居続ける為には、「不幸」と表裏一体である事を覚悟しなきゃいけない。腹を括らないといけない。




そんな事を書いていると、アドラー心理学の本「幸せになる勇気」に書かれていた

人生はシンプルだ。だがシンプルである事は難しい。

といったフレーズがあったなと思い出された。
まさにそうゆう事なんだろう。

そしてシンプルに又は幸せに生きようと心に決めた時には、それと表裏一体の「難しさや不幸」に立ち向う事を決めたことと同意なのだろうなと。


だろう。とか、思う。みたいな事をダラダラ書いてしまったが、決意しよう。

僕は人生に大なり小なり不幸があるのであれば、「純粋に生きる為の不幸」を選んで「本当の生き甲斐」を感じ続けたい。

正直言って、「やる気」とか「モチベーション」とかの正体は今もよく分からないし、言語化できない。

けれど今何となく感じるのは、「覚悟する事」が世間一般で言う「やる気」や「モチベーション」に繋がる様な予感がする。

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ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^