他者に伝えるということ

昨年、一般書を上梓した。
論文でもなければ、史料集でもない。
一般書ながら、あまり研究をされていない分野についてまとめたので、できれば多くの人の目に触れてほしい。
もちろん、多く売れればその分、印税も入るのでありがたい。
発売日が決まってから学内・学外で宣伝をした。学生の皆さんから快く「予約しました」「予約します」というコメントをいただいた。それはそれで、とても嬉しい。
しかし「予約しました」「予約します」という言葉に続くのは、決まって「書名の漢字が読めません」であった。
拙著のタイトルを担当の編集さんと相談したとき、一片の心配もしなかった。
日常というのは怖いもので、自分が読めるからといって万人が読めるとは限らない。
そんな時、大学院生だった頃の記憶を思い出した。
ゼミで研究報告をするとき、決まって私が指摘されたのが「お前の常識は、他の人の常識ではない」というものだ。
師匠は民衆史の研究者であり、板碑や起請文研究の第一人者であった。史料も抜群に読めて(と不肖の弟子がいうのもおこがましいが)、我々ゼミ生は「あぁこの人の史料読みにはかなわない」と思わされたことが度々であった。いまも追いついてはいないだろう。
多くの史料集を編纂し、研究をされていた先生から「お前の常識は、(以下同文)」と言われ続けたのである。
私自身は、貴族の日記や儀式書を読むことが多く、研究テーマもそうした天皇制や朝廷に関わることだった。当時はずいぶんとやさぐれつつ、次の報告準備に勤しんでいたが、別段、先生は報告した内容の史料についてご存じなかった訳ではないだろうと思う。
つまりは、自身の研究をどうアウトプットすべきなのか。わかりやすく伝えるのか。スタンスというか姿勢を正され続けていたのだった。
研究を続けていくと、大切になるのは成果内容をどうアウトプットするかである。
史料を読んでいるのは愉しい。とはいえ伝える営為を怠ってはならない。
人文学、ひいては歴史学においては、研究論文としてアウトプットすることが多い。研究論文といっても、同じ研究分野の読者がいる。自分の言わんとしていることをできるだけ正確に伝えるためには、どんなことが必要か。大学院では、そうした姿勢を学んでいた気がする。更には大学での講義や、社会へ研究成果を還元するため一般書でどう伝えていくかにつながるだろう。
私はいま、芸術を幅広く捉え、ものごとを俯瞰し学ぶ、芸術教養学科という研究室に所属している。学生への講評でも、常に意識しているのは先に掲げたような師匠の教えである。
当時も今も私の研究の善し悪しはともかくとして、研究成果とはどれだけ優れた視点であっても、伝わらなければ意味が無い。それはレポートでも然りである。
今回の学生さんとのやりとりで改めて、気づかされたのであった。
最初の話に戻って思案したものの、新たに思い浮かぶタイトルもない。なので「なんて読むんだろう」と興味を持って手にとってもらえれば、幸いである。
この小文をご覧になって、どんな内容なんだろうと興味を持って下さった方。Amazonやhontoあたりで、私の名前で検索してみて下さい。

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