もう一つの葵祭

毎年5月15日に、都では「葵祭」と呼ばれる祭が行われている。下鴨、上賀茂神社の祭礼である。古くは「賀茂祭」と呼ばれるもので、史料上の初見は『続日本紀』文武2年(698)にある。平安京への遷都後に、嵯峨天皇が斎王を賀茂神社へ置き、国家祭礼の一つとして位置付けられるようになった。平安時代では、単に「祭」と呼ばれるものは、この賀茂祭であった。祭礼は4月の中の申・酉の両日に行われていたが、明治以降、新暦に変更されてから、現在のスケジュールとなった。
約1300年続く祭として、京都の三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)の一つとして位置付けられている。今日の京都市の観光資源としても重要視されている。祭礼は、斎王の禊に始まり、メインイベントとしては、御所から下鴨社・上賀茂社への行列が進められる。行列は、路頭の儀と呼ばれ、平安時代の装束そのもので、当時も貴族をはじめ多くの民衆が見物をし、今日でも多くの見物客で賑わう。(但し、今年に限ってはコロナ禍の影響のため、行列もなく神事のみが催行されたと聞く。)

この賀茂祭がなぜ葵祭と呼ばれるのか。それは祭の関係者すべてが挿頭に葵を用い、また、神社や家々に葵を飾っていることに拠る。葵は、その昔、日本各地に自生していたが、今日では随分と減少し、その確保に苦労しているらしい。

さて、京都はもとより、全国的にも知られている葵祭だが、京都にはもう一つの葵祭があるのをご存知だろうか。それは京都市嵐山にある松尾大社の松尾祭の一つ、還幸祭である。
今回はあまり知られていない、こちらの葵祭について紹介したい。
松尾大社の祭である松尾祭の歴史は、賀茂祭と同様にとても古い。貞観年間(859~877)に始まると言われている。この松尾大社は山城国の豪族だった秦氏の氏神であり、賀茂社は賀茂氏の氏神であった。こうした歴史の古さから、賀茂社と松尾大社は、王城鎮護の神社として「賀茂の厳神、松尾の猛霊」と並び称されている。また賀茂社の賀茂氏と、松尾大社の秦氏は関係がとても深い。神社の歴史としても、賀茂神社と松尾大社はとても古く山城国(現在の京都)でもっとも重要な神社とされている。
このように歴史のある松尾大社の祭が、3月の中の卯の日と4月の上の酉の日に行われていた「松尾祭」である。現在では4月20日前後と、その3週間後に行われている。今年は今日、5月17日が還幸祭である。

前の祭は神幸祭、後の祭を還幸祭という。神幸祭は松尾の神が本殿から分霊を受けて西七条御旅所などへ「おいで」になるものである。その3週間後に行われる還幸祭は各旅所から旭日の杜(現在の西寺跡)に集り、松尾大社へ「おかえり」になる祭礼である。
この還幸祭で、松尾大社の本社、楼門、社殿をはじめ、各御旅所や御輿、更には供奉する神職の方々が葵と桂で飾る。そのため、この松尾祭の還幸祭も「葵祭」と称されているのである。
祭のメインイベントは、旭日の杜で行われる、西ノ庄の粽講のお供えと、赤飯座の特殊神饌を受けて行われる祭典である。宮司以下、神職や、氏子の代表者が列して祭礼を行う。その赤飯座や粽講というのは氏子の中でも決まった家が代々、守ってきているコミュニティの一つである。こうした氏子の方々の力があってこそ、祭は維持・継承されてきたのである。松尾大社の氏子のエリアはとても広い。祭の中心は松尾の神が分霊されている御神輿ではあるものの、氏子を中心とした人々が祭を維持している「思い」はとても強い。その現れが大社から御旅所へ「おいで」にあるのと、御旅所から大社へ「おかえり」になるという祭の通称である。あくまで、大社側ではなく、氏子の住むエリアである御旅所が基点となっているところにも現われているのであろう。
祭を維持・継承しようとするコミュニティの強い思いがひしひしと伝わるこの祭は、あまり知られていないかも知れないが、京都の伝統を理解する上でとても役立つものといえる。

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