秘密のアトリエ

学内のコラムの担当がやってきた。美大らしく教員のアトリエを紹介するものだ。
「あぁいいっすよ。書きますよ」と気軽に会議で応えておいてなんなのだが、歴史学、殊には日本中世史を専門領域とする私にとって、アトリエと呼べるようなスペースはない。あるのは本や史料の山の置き場と、それらを捲るスペースである。
職場の狭い机周りには、成績情報など学生の個人情報もあるので、それこそ「秘密」もあるが、こと研究に関しては秘密はない。
つまりは、「秘密」も「アトリエ」もないのであった。
しかし、それだけでは話もおぼつかないので、私が仕事をしている場所について、ご紹介しよう。

私が所属している芸術教養学科は、幅広い連環する教養を学ぶカリキュラムを旨としている。そのため厳密な意味で私が専門領域としている日本中世史に関わる科目はない。歴史といっても通史、文化史や社会学との学際領域の科目が多い。職場の机周りには、自分の専門領域以外の史資料・研究書、工具書、そして書類や採点したレポートの束が乱立している。平積みでまさに「乱立」している。写真は職場である。書類の中に籠もってカップ麺を啜る私(撮影は同僚のK先生)。

他の先生方のスペースとは大違いである。さらに言えば、中世において権利を有さないものが勝手にエリアを押領し使用することを「当知行」というが、私の机の隣があいていることをよいことに、当知行を繰り返している。中世の在地領主がしてそうなことを、職場で繰り返しているのだ。そのうち「ええかげんにせい」といわれることだろう。
但し、科目を設計・運営し採点するためには、論拠となる史資料は欠かせない。そうなると必然的に本は増える。やむを得ないことなのだ。

翻って自宅には、仕事用に6畳分の書斎がある。明治の文人よろしく、勝手に「道光庵」と名付けている部屋には、中世貴族の日記や古文書、研究論文、史料のコピーなどが詰まっている。正岡子規は『病牀六尺』の冒頭で「病床六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。」としているが、私にとっては「書斎六畳、これが我が世界である。しかもこの六畳の書斎が余には狭すぎるのである」。

特に債務となっている原稿に追われていると、書籍は「乱立」し、床のそこかしこに広げたままの書籍やコピーが、足の踏み場もなく敷かれた状態となる。
子どもたちにとって道光庵は佳き遊び場らしい。しかし躰が少しでも触れると、絶妙なバランスで乱立している本たちが、一斉に雪崩をうつ。ひどい有り様である。さすがにその風景は恥ずかしくてお見せしようがない。
もっと本を整理出来ればよいのだけど、同業者で本が少ないという人をみたことがない。大学院生の頃、70歳を過ぎた中世史の泰斗というべき先生から「いまでも新しい史料集がでると「いつか使うかも知れない」と思い、ついつい買ってしまい妻に見つけられて叱られる」と笑いながら話されていたのを思い出す。
また学部生の頃、師匠の一人から「研究していくなら本はかけがえのない財産になる。借金をしてでも若い頃は本を買いなさい」といわれていた。幸い、社会人学生だったので、給料の大半を本代と酒代に注ぎ込んだ。かくして道光庵である程度の調べごとが出来ている。いまでも校務の合間に史料を捲る。ほぼ逃避行動に近いが、史料を捲り新たな発見をするのが何より愉しい。

歴史の中で埋もれている新たな史実を発見したい歴史研究者にとって史料や先行研究といった書籍は増えこそすれ、減ることはあり得ない代物なのだ。
なので引っ越してきたときには広いと思う部屋が、瞬く間に本で埋まり、スペースを稼ぐために箱入り場合には箱を捨て数ミリを稼ぎ、本棚の上部では天井まで平積みを繰り返す。
隙間という隙間に本を入れて、なんとか均衡を保っている。仕事をしていると道光庵の床で寝落ちすることも多々ある。地震があると圧死しそうだ。
さらには隣の部屋の棚も本で埋まり床にも平積みされていく。そういえば実家においてもらっている本もどうすればいいのか。生きていくことは、本の置き場を悩むことに等しい。

美術科やデザイン科の先生がたと異なり、私にとって「秘密のアトリエ」とは冒頭でも述べた通り存在しない。しかし研究をする作業場がそれに該当するならば、かくのごとくただただ本が増えて行く場所といえよう。

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