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「学校へ行かなくてもいいよ」の先にある未来。

今日、9月1日は夏休みが終わり学校がはじまる日。
この日は子どもの自殺がもっとも多くなる日(自殺対策白書:内閣府)。

子どもたちは、今日という日に学校へ行くことができただろうか?
行きたくない子は、無理せず無事に休むことができただろうか?
今日を、無事に生きのびてくれただろうか。

メディアなどでは「学校に無理して行かなくても大丈夫だよ」というメッセージが飛び交い、学校よりも生命の方が比べ物にならないくらい大切なんだと伝えている。

だけど、子どもにとって「学校に行きたくない」は別に9月1日だけのことじゃない。

今日をなんとか休むことができたとしても、明日、明後日、明々後日と毎日「学校に行くか、行かないか」という選択を迫られる。でも本当は、答えなんか最初から出ている。「行かない」一択だ。その一択を「どうするの? 行くの? 行かないの?」と親、学校、そして自分の内なる声がずっと責めてくる。

ぼくにとっての小学校生活は、その選択の毎日だった。

「行く」か「行かない」かで言えば「行かない」しか自分の出す答えはない。だけど、ぼくは学校に「行き」続けた。ぼくの出す答えに、意味も権力もなかった時代だった。

「行かなくていいよ」とメディアは簡単に言う。
SNSでも「行かなくていいよ」という声がたくさん溢れている。

でも、いつまで「行かなくていい」のだろう。
明日も? 一週間後も? 1年後も、学校に行かなくてもみんな「行かなくていいよ」と言い続けてくれるのだろうか。

子どもの頃のぼくには、自分でその答えを、答えにつながる道筋を見つけることはできなかった。両親も、きっとそこまで深刻にはとらえていなかっただろうし、きっと学校へ行かなくてもいいよ、の先にある未来は想像できなかったんじゃないだろうか。

ぼくが不登校になる勇気を持てなかった30年前。
あれから時代はずいぶん進化した。価値観だって多様化した。学校へ行かなくてもいいよ、と言ってくれる人たちも増えた。

それなのに、まだ「学校へ行かなくてもいいよ」の先の未来はとても不安に見える。

不登校の本の多くは「学校に行けるようになること」を目的にしている。
適切な登校刺激を与え、本人のペースでゆっくり学校へ通えるように、って。

これからは、それに加えて「学校に行かなくてもちゃんと生きていける」ことを示した情報が必要になる。学校へ行けない子どもたちや、その親が自信を持って学校に行かなくても大丈夫な生き方を手に入れないといけない。

それがあってはじめて「学校へ行かなくてもいいよ」の言葉は、対処療法的な言葉じゃなく、未来へとつながる言葉になるから。

ぼくはいま。
学校へ行っていなくても、楽しく、明るく元気に学び、暮らしている子どもたちの本を書こうと思っている。そこには、子ども本人の物語だけじゃなくて親や先生などその周りにいる人達の物語も含まれる。
学校行ってないけど、起業しました、YouTuberになりました、というある意味スペシャルな人じゃなくて、もっと普通の身近な人達のことを知りたい。

「学校へ行かなくてもいいよ」と、ぼくは自分に言ってあげることができなかったから。

「学校へ行かなくてもいいよ」の先にある未来は、ちゃんと素敵なものにすることができるんだよってことを、たくさんの子ども達や親御さんたちに伝えたい。


では、また明日。


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