(前編)ミャンマーに来て4年、社長退任します。
皆さん、ご無沙汰しております。
ミャンマーで農家向けサービスを提供するボーダレスリンクのともろーこと、犬井智朗です。
『2022年までに、社長退任します』と宣言してはや1年半。
2021年9月31日をもって、(株)ボーダレスリンク の代表取締役社長を退任します。
今日は、この4年間の歩み、そして、クーデターにコロナ、国内紛争が激化する中、なぜ今なのか、なぜ退任するのか、今までのことも今の気持ちも、忘れないように書いてみました。
2018年4月 『事業も社長も変わります』
2017年12月、僕はボーダレスジャパンからボーダレスミャンマー代表として、ミャンマーに来た。
ミャンマーには、ボーダレスグループが出資する会社が3つある。当時僻地農村部に生活物資と届ける物流事業を行っていたボーダレスリンク 、ハーブの契約栽培、乾燥、日本への輸出を行うボーダレスファーム、そしてその2社をサポートするためのボーダレスミャンマーという三つの会社だ。
僕は当時事業がうまく行っていなかった2社の経営立て直しという名目ででミャンマーに来た。ボーダレスファームには、僕と同期のなこすけ(川北奈生子)が社長に就任し事業が軌道に乗りつつあったこともあり、僕はボーダレスリンクに張り付き、経営立て直しをすることに。
当時物流事業は数年で数千万円の赤字を出しており、決してうまく行っているとは言えなかった。
ミャンマーに来て3ヶ月間は、ひたすら前社長の経営サポートとして、事業プランの書き直しをやった。
これまでの物流事業は本当にソーシャルインパクトを出せているのか、この事業モデルを拡大した時に本当に収益が成り立つのか、社会性と事業性の二方向から徹底的に見直した。
3ヶ月の議論を通じ、結果として、物流事業は撤退、社長は僕が引き継ぐことになった。
本来は、僕は2事業の立て直しだけをやって、黒字化まで伴走し、自分の新規事業をやるつもりだったが、ボーダレスリンクの前任社長が日本に行くことになったなどの経緯から、僕が引き継がざるを得なくなった。
それからは、壮絶だった。当時すでにいた6人のボーダレスリンクのメンバーからすると、トモローが来たことで、社長は交代、事業もリモデルとか言い出したもんだから、たまったもんじゃない。
ミャンマーに来てから3ヶ月、2018年3月のことだった。
僕が社長になること、そしてこれからは物流事業から農業サービス事業に変わることを発表した。
当時はまだちゃんとしたオフィスもなくて、ダンボールの上にパソコンを乗っけて、まだカタコトのミャンマー語で、必死でプレゼンをした。
とにかく不安だった。自分が社長になることを受け入れてくれるか。全く新しいビジネスモデルに反発が起きないか。
「今日から僕が船の船頭です。みんなで息を合わせれば、きっと前に進むことができる。これから、たくさんの壁にぶつかるだろう。
でも、きっとどんな壁にもそれを回避して前に進む道がある。僕はその道を先頭に立って探し続ける。だから、絶対に難しいことがあっても、無理だと思うことがあっても、諦めずに一緒に船を漕ぎ続けて欲しい。
そして、きっといつの日か、この小舟を大きくして、たくさんの仲間とともに、社会を変えられると信じている。」
確かそんなことをみんなに熱く語った気がする。
幸いにも、当時僕は社員のみんなと一緒に住んでいて、同じ釜の飯を食って、毎日のように仕事終わりに飲みに行って、本当の兄弟のような関係ができていた。
そんな信頼関係があったからこそ、突拍子もない新しい事業モデルにも、社長の交代にも、不安はありながらも付いてきてくれたんだと思う。
その日から、ボーダレスリンクの新体制がスタートした。
2019年4月 『スタッフ会議で社長号泣』
新モデルの発表から1年間、事業モデルの検証が始まった。
マイクロファイナンス、資材販売、技術提供、作物販売、農家が農業をする上で必要不可欠なカネ、モノ、情報、マーケットをワンストップで農家に届ける事業だ。
事業難易度の割に、誰も経験がない。農業技術をもつ人間などいるはずもない。お金がなくて採用することもできない。
前モデルでは、運転手や肥料運びなど、主に力仕事をしていたメンバーたちだったこともあり、ほうれんそうやスケジュール管理はもちろん、当初は仕事時間になっても来ない、朝会で手帳を持ってこない、仕事が早く終わったら家に帰っちゃう、なんてことも日常茶飯事だった。
それでも、兄弟のように暮らしている仲間たちはきっと変われると信じて、ゼロから仕事の仕方改革をやった。
仕事は9時から、朝会ではタスクを分刻みで発表し、1週間のスケジュールをそれぞれホワイトボードに、ほうれんそうを徹底。
これまで言われた仕事だけをやってきたメンバーに対して、それぞれに責任のある担当を与え、小さなプロジェクトの管理を任せ、小さな成功体験をつめるようにした。
「人は変われる、でも一人で人は変われない」僕の信じていることの一つだ。信じた通り、メンバーはみるみるうちに成長していった。
しかし、みんなが想像以上の成長を見せていても、事業難易度と僕らに与えられた1年以内に黒字化という投資ルールに対して、メンバーの成長は追いついていなかった。
僕自身も経営者として未熟で、事業の押しボタンを見定められず、「選択と集中」ができていなかった。
農業技術こそが顧客獲得につながる!とか言って、農業技術開発チームを組成し、技術開発に挑んだりしていた。農業専門家もいないのに。
どれくらい技術力がなかったかというと、「肥料アドバイス」のサービスをやるために、試験栽培をやることになり、村人の目につきやすい6箇所を選定し、土地を借りてトウモロコシの肥料試験を行った。
しかし、なんと肥料のテストどころか、1箇所も発芽さえしなかった。流石に驚いた。僕たちも驚いたし、農家も驚いた。
ミャンマーでは手のかからない、簡単な作物ダントツNO.1のトウモロコシが、発芽しないなんて。当時ナイーブだった僕は、真剣に事業撤退を考えた。何より、恥ずかしかった。笑
それ以来、技術のことは一旦やめようと決断し、業務難易度が低く、社会的インパクトが大きい、そして収益性の高いマイクロファイナンスを軸とした戦略に振り切った。
そうすると、これまでゴチャゴチャしていたマーケティングメッセージもシンプルになり、リソースをそこに集中させることにより、一気に業績は改善し始めた。
そんな時、事件が起こった。
今も忘れない、2019年4月のことだ。
マイクロファイナンスに軸を絞ったことで、一旦の勝ち筋が見えたものの、思ったようなスピードで進まない。
勝ち筋は見えているにも関わらず、事業が成長しない。そこには、僕の「甘さ」がボトルネックになっていた。
以前の事業から引き継いだ5人、新規採用した2人。事業が大きくなるにつれて、成長についてこられる人と、そうでない人が出始めていたのだ。
どうしても前体制のカルチャーが抜けずにスピードについてこられないメンバー、初めての採用で当初からミスマッチ感があったメンバー。何れにしても、兄弟のように仲が良い仲間に対して、強く言うことができなかった。
新モデルスタートから1年、事業の勝ち筋は見えた、ここからはどれだけ走れるかが勝負になるタイミングで、このままのスピードでは2年目を通年黒字で終えれずに、事業継続することができなくなる。
1年間、心の底では、彼らの働き方やスピード感に違和感があった。でも、「仲が良いから」言いにくかった。
しかし、「事業停止」という現実が見えてきたときに、このままではいけない、僕らは仲良しごっこをするために集まったわけじゃない。農家の生活を変えるために集まっているんだと気付いた。
気付いたからには、決断するしかない。そして、スタッフミーティングを招集した。
「新モデルスタートから1年が経った。やっと勝ち筋が見たけど、このままのスピードでは、来年で事業撤退になってしまう。みんなは何のためにここにいますか?僕は農家の生活を変えるために日本から来ました。だから、ここで事業撤退になるわけには絶対に行かない。これからもみんなで笑顔で楽しく、そして農家の生活にインパクトを与えるために、これから10倍のスピードで走ります。もし、自分はそんなつもりじゃなかった、そんなやり方にはついていけない、そう言う人は遠慮せずに言って欲しい。これからは、ついてこれない人は置いていきます。一緒にそれでも農家のために走りたい人は、明日からまた頑張ろう。そうでない人は、舟から降りて欲しい。」
これまで一緒に戦ってきた仲間。楽しい時もしんどい時も、励まし合いながら走ってきた兄弟たち。ミーティングをしながら、涙が止まらなかった。
この後結果として、7人中4人のメンバーが舟を降りることになった。
2019年 『黒字化と急成長そして-崩壊-』
4人の卒業生を出したものの、残る3人のメンバーと、新たに採用した農大卒の新メンバー3人、ローカルの若者3人を加えた9人で、一気に2019年度を駆け抜けることになった。
僕らにとっては生き残りをかけた一筋の光を、チーム一丸となって駆け抜ける。朝も夜も業務時間にも目もくれず、疲労も忘れて一心不乱に働いた。
何度も壁にぶつかって、それでもきっと他の道があると何度も迂回して、一歩一歩前に進んだ。
この時にできたモデルが、今の農業センターのモデルだ。こちらから村に行ってサービスを届けるだけではダメだ。農家がいつでも安心してモノ、情報を手に入れられる場所が必要だと。
こうして、2019年3月の決算を迎え、わずか60万円ではあったけど、僕らにとっては初めて自分たちで生み出した黒字となった。
そして、当時のマイルストーンをクリアし、事業継続が認められることになった。「何とかみんなの雇用を守れた。何とかこれからも農家さんにサービスを届けられる。」心の底から安堵した時だった。
しかし、毎度のことながら、成長すると成長痛が来る。
数ヶ月間、本当に前だけを向いて走っていた。みんなが疲弊していたのはわかっていたし、チームの間でうまくコミュニケーションが取れないまま、事業がどんどん大きくなり、忙しくなり、みんながバラバラになっていたのもわかっていた。
そして、今度は僕がメンバーたちに呼び出された。
「カウンカウン(僕のミャンマー語のニックネーム)は、厳しすぎる。もっとメンバーのことも考えてほしい。もっとメンバー同士でしっかりコミュニケーションを取れるように組織を作るべきだと思う」当時いた9人全員からのダメだしだった。驚いたし、嬉しかったし、申し訳なかった。
僕は一人じゃない。ずっと先頭で一人で走り続けてきたけど、これからは彼らが前に立って会社を引っ張っていくんだ。そう実感した。
ここからは、会社のステージも変わってくる。全てを作り直そうと決意した。結果、一人も離脱者を出さぬまま、彼らをリーダーとして翌年を迎えることになる。
急速な成長の裏では、そのしわ寄せが、成長痛が確実にやってくる。でも組織は生き物であり、成長に合わせて在り方を変えて行けばいい。落ち込んでも、崩壊しても、また作り直せばいい。そんなことを学んだ。
それから翌年の2020年度は速かった。前年に9人だったスタッフは、1年で30人になり、トウモロコシが発芽しなかった僕たちの会社に、農大卒のメンバーが10人以上入ってきた。
農業省を退職した先生も入り、本格的に技術サービスを提供するために技術チームも結成され、サービス農村数は100村を超え、3000人以上の農家さんたちに利用してもらえるようになった。
2020年まではこうして順調に?進んできた僕たち。2021年に転機が訪れることに。そして、なぜ僕が退任し、新たな挑戦を始めるのかは、後編へ続く。
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