見出し画像

8月の振り返り【健全な肉体にこそ健全な精神が宿る】

【8月の振り返り】
30分の短編ドラマの作品にスタッフとして参加した。
監督とは久しぶりに仕事をした。昔、仕事をしたことを思い出して楽しかった。
変な気持ちに鳴ったのは、昔自分が監督に言われたことを、自分が部下に言っていて笑われたこと。そっくりそのまま一緒だった。自分も昔は指導される側だったのが、部下ができ指導する側になったがまったく同じことを部下に言っていたのはなんだか不思議だった。昔は指導する側がうまく教えてくれていないから失敗するんだと生意気な気持ちを持っていたが結局は自分自身がわかっていなかったということだった。そしてそれは誰もが通る道だということ。
今回一番感じたことは「老化」をだった。ある人が仕事ができておらず、その人はそういった仕事の成果に対して認めたくないと言っていた。その人の中で自分がうまく仕事ができていないことに対して葛藤しているのはその言葉を聞いてわかった。しかし、そのことに対して「自分と向き合っていない」と感じてしまった。それは自分のことをわかっていると思いこんでいるだけで、特に改善や工夫をしているようには私には思えなかったからだ。
決めつけが強くなった。頭が固くなるとは思考が広がらずに狭まることなんだと思った。


ノグチイサム
初めてノグチイサムの作品を観た。1章から3章までと3つのエリアに作品が分かれていた。照明を使った作品や石や銅を使った作品がほとんどだった。どの作品も「不思議さ」があった。それは作品の形が見た目として薄かったり、形がいびつだったりとその作品がもつ存在感が不思議だった。そして石の持つ存在感の重さに驚いた。石自体の持つ重さに「存在感」の重さに昇華しているのはノグチイサムの技術なんだと思った。
「重さ」について考えると思い出すのが、ずっとちょこちょこと読んでいるミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」の本のことを思い出した。この本は気持ちや思いは重いほうがいいのか軽いほうがいいのかということをテーマに書かれている物語で自分のなかで少し繋がった。ずっと読めていなかったので読み進めようと思えた。


結婚の挨拶
彼女の実家に結婚の挨拶をしに鹿児島に行った。結婚の挨拶とはうたっているものの半分旅行のつもりで行った。毎日ラーメンを食べて彼女に鹿児島を案内してもらった。鹿児島は湿気がなく気持ちよかった。だが南の国だけあって気温は凄まじく暑かった。
鹿児島の景色で印象深いのは桜島だった。鹿児島県民にとって桜島は当たり前にある景色だけど、私にとってはとても珍しく感じた。彼女の家族とも一日一緒にホテルに泊まり食事をしたり、彼女の姉が二人の子供を連れてきていたので子供と遊んだりして過ごした。
私自身、家族と話したりすることが少なかった。今回、彼女の家族と話をするなかで自分は全然家族と話をしてこなかったんだなと思った。恥ずかしいという気持ちがずっとあったので家族と話すことは最低限だった。しかし、父親が亡くなって今は母親しかいない。いまのままだとあと何回話すことができるのだろうと思った。自分にとって会話するということは苦手意識を持っていたがそんなことは自分で自分を制限しているだけだとようやく実感することができた。生活するなかで会話とはとても大事なツールである。そんな当たり前なことを大事だと最近いろいろと考える。30代になって20代で知ったことの本質をようやく理解できることが増えた。
結婚の挨拶も無事に終わり、これからは彼女とは夫婦になり、一生を二人で生きていくことになる。夫婦としてはまだまだ子供だと思う。しっかりと妻と向き合い、生きていこうと思った。

今月を振り返ってみてもっと自分自身を理解するだけでなく、もっと他の人を理解することに興味をもった。
映画監督の今村昌平は映画学校の理念として「人間に興味をもて」と言っていた。この言葉はいわゆるとっかかりだけで、その先に何をするのか?その問いを自分でたて、行動していくことが重要なのだと仮説している。

今月は自分の企画を作ったり、シナリオを書くことができていなかった。もっと創作に対して向き合うことを意識してやっていこうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?