2つのさとり、心解脱と慧解脱

悟りには2つの状態があります。

それは、

自分の内側に彼の意識を置くか、または、外側に置くか。 

です。


外側に意識を置くとは、

外の対象と一体になることで、ヨーガや仏教ではサマーディと呼ばれます。

道教の大周天やヨーガのクンダリーニ覚醒は、瞑想が明けても日常から常にサマーディしているので、わかりやすいです。

仏教では心解脱と呼ばれます。


内側に意識を置くとは、

静まった彼の意識で瞬間瞬間の外界や内面をあるがままに達観ことで、仏教とりわけ上座部仏教や禅仏教特有の教えです。

慧解脱とも呼ばれます。

マルティンブーバーの我と汝は、この2つの解脱の状態を言語化しているので、転載してみます。

大我への没入が、すべての〈われ〉の制約性からの解放によるものであろうと、また思惟する者と存在者との一致として把握する見方からであろうと、かまわない。
前者の見解では、我執から解放された存在に神が入ってくるか、あるいは、この存在者が神の中に昇華すると考える。
後者の見解によれば、存在者自体が直接神の唯一者としての立場に立つと解釈する。
それゆえ、前者においては、最高の瞬間には、もはや二つのものが対応して存在することは消滅し、〈われ〉が〈なんじ〉へと呼びかけることはなくなる。
後者においても、もはや二つのものが対立して存在することはないが故に、おそらく、真実の意味で〈なんじ〉に語りかけることは、成り立たなくなる。
前者は人間と神の合一を、後者は人間と神の同一を信ずる。前者は恍惚といったように、絶対の〈なんじ〉になってしまい、後者は存在しているものが、思惟する主体の自己観照といったように、自己を明らかにすることとなり、両者はともに〈われ〉と〈なんじ〉を越えている彼岸の状態を主張する。
一方は〈なんじ〉が〈われ〉を吸収することによって、いわば動的な考え方をし、もはや〈なんじ〉は存在せず、唯一の存在者のみが存在することになる。
他方は、解脱し大我となった〈われ〉が唯一の存在者であるという認識に到達することによって、いわび静的な考え方に立つ。双方いずれも、〈われ-なんじ〉の関係を放棄してしまう。
マルティン・ブーバー著「我と汝・対話」

どうですか、理解できましたでしょうか。

人生苦しみなく生きたいって思うことは、人類誕生からの永遠のテーマなんだよね。でも、そう思った時点で苦しみからは逃れることが出来ないのだから、そこに人間の難しさと面白さがあるのかな。 共感とサポート頂けたら幸いです☺️