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目のつけどころ。

パンデミックになってからというもの、とかく何かを失ったり逃したりすることが多い。
昨日もまたひとつ、もう少しで得られそうだったものが、手の間をすり抜けていった。

ああもう。

なんでよ。

そんな風に思うのはもう何度目だろう。

その一方で、最近の私は、「何かが手に入らなかったときは、これからもっと良いものが手に入るとき」という言葉を信じている。
だから大丈夫、と自分に言い聞かせると同時に、こうやって少しでも早く、自然と切り替える方向に思いが至った自分は成長したなと、ちょっと胸を張れそうな気がした。今でもふとした瞬間にちくちくしちゃうけど、それでも前は今以上に、いつまでもいつまでも、べったり執着してなかなか離れられなかった。


そうだ。明日は、3月からずっと行けてなかった近所のカフェに、コーヒーを飲みに行こう。
平日の早朝なら、きっと人も少ないはず。

そう思って5時に目覚ましをセットして、今朝。

久しぶりに、誰にも会わないのにメイクをした。
いつもの汚れた(けど履きやすい)スニーカーじゃなくて、お気に入りの靴を履いて、アクセサリーまでつけた。

たっぷり入ったコーヒーをすすりながら、「手に入らなかったものばっかり数えてるけど、今年に入って得たものって何かあるかな」と、手帳にリストアップしてみた。

新しい友達。
昔からの友達とのオンライン飲み。
家族との時間。
自分と向き合って試行錯誤する時間。
のんびりする日々。
ちょっと気持ちが浮足立つような、新しい靴と下着。
周りからの、たくさんのあったかい言葉。
気になってたことへの挑戦。
etc

ざざっと挙げるとこんな感じ。

書き出してみて、私はかなり色んなものをすでに持ってるし、こんな状況下でも周りにたっっくさん与えてもらってることに気が付いた。
どれほど周りに支えてもらってるのか、その温もりやありがたみを無視して無いものにばっかり注目して、もっともっと、あれもこれも欲しかったのに!!これが手に入れば私はマシになれるのに!!ってジタバタしてたんだなあ。少し見方を変えれば、こんなにあったのに。
「足るを知る」って、京都の龍安寺の石庭にあったっけな。こういうことなんだろうか、なんて、ちょっと哲学ぶってみたりして。

身なりを整えて、カフェに来て、あるものを数えた。

それだけっちゃそれだけ。

でも、何だか胸のあたりがじんわりあったかくなったし、周りへの感謝で気持ちが少しまあるくなれた気がするし、「私はちゃんと自分で自分を満たせる」って安心感も生まれた。
大丈夫だ。

気持ちに余裕を持って、私も、誰かにとっての「得たもの」の一部になれたらいいなあ。


もっかい言う、大丈夫。

あなたも私も、大丈夫。


素敵な一日になりますように!

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