ぼくの中で誰が思い、誰が話すのか
思考とは、貨幣のようなものだ。
貨幣のように公共的なものであり、ぼくたちの間を流通している。
どこからともなくやってきては、またどこかへ行ってしまう。
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他人の考え方を批判することを恐れているひとは少なくない。
それが仲の良い友だちなら尚更だ。
お互いの意見が食い違い、ときに激しく対立するときに、友だちのままではいられないかもしれないと焦る。
だからイエスマンになることで、自分が本当に言いたいことを押し殺してしまう。
それは、「思い」や「考え」を自分と同一化していることのあらわれなのかもしれない。
そして、それらが批判されることと、自分が否定されていることを混同してしまっているようだ。
と言いつつも、一方では、そのように考えるのはさして難しくないような気もする。
思考と自分を同一化するべきではないと言われても、思考の集まりこそがまさに自分なのだと主張したくもなる。
たしかに、考え方の集積こそが、アイデンティティを形成しているとみなすことは、それほどおかしいことだろうか。
だから、なにか自分の考えが批判されたら、まるで自分が非難されているような気がして、傷つくし怒りたくもなる。
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ここで、思いや考えといったものが「借り物」であると言ってみたくなる。
あなたの「思い」や「考え」を少し振り返ってみてほしい。
日頃、だれかに対して話していることのどれくらいが、テレビや映画のようなマスメディアから、インターネット記事から、SNSでのうわさ話からの受け売りだろうか。
また、幼い頃に家族から何度も聞いた話しや人生訓、学校での先生からの教え、好きな芸能人のカッコいい人生哲学。
これらのものを除いて、自分の中にどれほどの思いや考えが残っているだろうか。
「幸せとは、仕事終わりにキンキンに冷えたビールを流し込むことだ」とぼくが思うとき、そのように考えているのは誰か。
それは自分の見解か、それとも世間一般の通念か、仲の良い友だちからの影響だろうか。
自分の中で生じているように感じる思いや考えは、本当に自分から発しているものなのだろうか。
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誰のものでもない「思い」や「考え」が、いつの間にか「自分」のものとなる。
誰かの思考が、気づいたら「自分」の所有物になってしまう。
思考とは、まさに貨幣だ。
それは、いま手元にある現金がたまたま自分のところにあるだけで、どこからきてどこに行くのかがわからないように。