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なぜいま「働くこと」を問いなおさなければいけないのか

 哲学カフェ開催の4日前となりました。今回は、「働くとはなにか」というテーマのもと、約2時間みんなでゆっくり、じっくりと対話をします。

 哲学「カフェ」というくらいなので、飲み物や軽食は欠かせません。話し合いをするなかで喉をうるおし、糖分を摂取するためのチョコレートなどは、対話での集中力を維持するためには必須です。また、飲食はその場の雰囲気を和ませ、リラックスできるような気がします。

 そもそも、このような対話的な活動と日常的な会話はどのようにちがうのでしょうか。

 わたしたちは、よほど特別な事情がないかぎり、日常的に会話をしています。たとえば、友だちとのたわいもないやり取りは、よい関係性を保ち、お互いに話しを楽しもうとする交流です。もちろん、このような会話が有意義であることを知っています。

 一方で、対話とは、真理を求める会話です。なにかの問いに答えようとして、あるいは、じぶんの考えが正しいのかどうかを知ろうとして、だれかと話し合い、真理を探求します。それは、ただ調べれば得られるような単純な事実ではなく、きちんと検討しなければ得られないようなものです。

 では、なぜいま「働くこと」について対話をしなければいけないのでしょうか。

 1つは、人工知能分野の急速な発展にあるでしょう。これは目新しい指摘ではないですし、多くのひとが既に知っています。人工知能そのものが問題なのではなく、それによって影響を受けるのは職業であり、社会の姿が大きく変わりつつあります。

 もう1つは、インスタグラムやツイッターといったSNSを通して、まわりにいるまさに就職活動真っ只中の学生が、さまざまな葛藤や想いを抱いていることに気がつきました。まさに、このことが哲学カフェを開催するに至った大きな理由です。

 とくに、友人の「この国はどうやったら良くなるのですか」という何気ないツイートは、保守的な自分に一歩踏み出すきっかけを与えてくれたような気がします。というのも、それまで多くのひとたちは、重要な意思決定に関して「どうせ変わらないから」と権威に一方的に依存し、じぶんはせっせこと働いて、じぶんの生活が送れればそれでいいと思っていると、考えていたからです。

 一般の人たちは、すでに対話の重要性について気がつき始めています。異なる立場にわかれ討議を行うディベートとはちがって、対話を通してじぶんの考え方が変容することは、おおいに歓迎されます。既存の常識や枠組みにとらわれない自由な発想や疑問を通して、わたしたちは学びなおすことができるように思います。

 ぜひ、みんなでゆっくりとして、肩の力を抜いて、なんとなくじぶんを変えてみませんか。