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【考察】YOASOBI「夜に駆ける」| "エモい"音楽とは何か

夜に駆ける

 時々、麻薬のような音楽に出会う。

 初めて聴いた時の、雷のような衝撃。電流が血管を伝って全身を駆け巡り、細胞一つ一つが音楽を吸収しようとするあの感触。そんな悦に入るような感覚を味わうために僕は音楽を聴き続けているのかもしれない。

 「夜に駆ける」は僕にとって、そんな音楽の一つだった。サビ出しのイントロで一気に惹きつけられ、間髪入れずに入るピアノの間奏では既に意識は現実に無い。そしてAメロBメロを経て、一瞬の静寂の後のサビ。鼓動の高まりと全身の毛が逆立つのを感じ、たまらず理性が一時停止ボタンを押す。あぁ、良かった、戻ってこれた。安堵の溜息を吐くと、どっと汗が噴き出す。そして放心状態のままふと思う。もし、本能が理性に勝っていたなら、僕はどこに行ってしまっていたのだろう。

 作詞作曲を担当するコンポーザーAyaseとボーカルikuraからなる2人組ユニット、YOASOBI。ここ数ヶ月突如として注目を浴び、連日メディアにも取り上げられるほか、代表曲「夜に駆ける」はビルボードジャパンのストリーミングチャートでは10週連続1位を達成するなど、”エモい音楽”という枕詞とともに若者を中心として爆発的な人気を集めている。今、「夜に駆ける」の何が若者に刺さり、なぜ受け入れられているのか。本稿で考察していきたいと思う。

ボカロミュージックは新たなステージへ

 初めて聴いてからしばらくの間、僕は「夜に駆ける」と距離を置いていた。恐かったんだろうと今は思う。本能に訴えかけてくる曲はそれ相応の精神的エネルギーを要求してくる。しかし数日後、おそるおそる再生ボタンを押してみると、違った視点でこの曲を聴いている自分がいることに気付いた。

 なぜか、デジャヴを感じた。ふと気を緩めるていると、心の中に手を入れられていることに気付く。手は奥へ奥へと伸び続けていて、最深部にある何重にもカギがかけられた箱に今にも届きそうになっていた。あっと思った瞬間、目にも止まらぬ速さで手が伸びてきて、箱がこじ開けられる。途端、青い思い出が走馬灯のごとく駆け巡る。甘くて酸っぱくて苦い感情がじわりじわりと全身へと広がっていく。そうだ、これはあの頃聞いていた音楽だ。不器用で、感傷的で、真っ直ぐにしか進めなかったあの頃ーー

 すべてを聴き終えてから、答え合わせをした。「YOASOBI」で検索すると、こんな言葉が目に飛び込んできた。「ボーカロイドプロデューサーAyase」。既視感の正体はボーカロイドだった。

 あれは僕が中学生のころだっただろうか。気怠い毎日に刺激を与えてくれたのは紛れもなくボーカロイドだった。電子音で繰り出される刺激的なサウンドと、合成音声によるアップテンポなボーカル。決して万人受けする音楽ではない。それでも、どこか危うさを持ったジェットコースターのような曲調が好きだった。「夜に駆ける」はそんなボカロ独特の空気を纏っていた。

(↓ボーカロイドの曲の一例)

 サンプリングされた人の声を合成して作られた歌声が最大の特徴であるボーカロイドミュージック。2007年頃からニコニコ動画を中心として徐々に広まり、様々なボカロPが登場し"新しい音楽"としての地位を確立していく。すると、人気に目を付けた企業がメディアミックス展開を始める。数々のCM、書籍化、そして舞台化。ついに陽の目を浴びたボカロに既存ファンは沸き、新規ファンも徐々につきはじめる。しかし、コンテンツに寿命が来ると、企業はメディアミックスから手を引く。ライトなファンはボカロから離れ、幻滅した既存のファン層も姿を消していった。こうしてボカロ文化は衰退した。

 黎明期から13年の月日が経った現在。今の20代のほとんどは多感なティーンエイジ時代に何らかの形でボーカロイドに触れたに違いない。今、ボカロの血を受け継いだ新たな音楽が若者から広く人気を集めるのは当然と言えるのではないだろうか。

 そして、20代はストリーミングサービス利用率が最も高い世代だ。ここで、マーケティング的な観点から考察をすると、ストリーミングサービスでの再生回数を再生者数 × 一人当たりの再生回数と因数分解した時、利用者のマジョリティである20代を再生者に落とし込み、ターゲティングできているのだから、驚異的な再生回数も頷ける。

最もボカロに近いJ-POP

 ここで重要になるのは、数あるボカロをルーツに持つ曲の中でも、「夜に駆ける」は特にボカロがもつ特徴を非常に多くもっているという事である。ボーカロイドプロデューサー、通称ボカロPがメジャーシーンに登場した例はこれまでいくつもある。その最たる成功例は米津玄師だろう。今や世代を超えて愛される国民的歌手の一人だが、かつてはハチというペンネームでボカロPとしてアングラな世界で名を馳せた。

 このころの彼が作っていた音楽はボーカロイドが歌うことを前提に作られており、メロディラインは非常に複雑だ。高音や跳躍も多い。しかし、シンガーソングライターに転身してからというもの、彼はこうした音楽を作るのをやめた。上に貼ったハチ時代の代表曲の一つ「マトリョシカ」と転身後の代表曲の一つ「アイネクライネ」を聴き比べるとその変化は一目瞭然だ。

 もちろん、米津玄師が音楽の方向性を変えたことについて非難するつもりは毛頭ない。自分で歌うという道を選んだのだから、自分の声質や音域に合わせ曲を作るのは当然のことだ。むしろ彼のセルフプロデュースカを評価するべきだろう。しかし、米津玄師の成功は「彼自身の才能」での成功であって「一人のボカロP」としての成功ではない。

 一方、「夜に駆ける」はボーカロイドの血が濃く受け継がれている楽曲だ。では、なにがこの曲を"ボーカロイド感"のある楽曲にしているのだろうか。ボーカロイドの特徴について調べてみると、興味深い研究を見つける事が出来る。

 上の論文は筑波大学情報処理学会に提出された論文で、ボーカロイド人気上位曲と下位曲のメロディを分析したものである。これによると、ボーカロイド人気曲のメロディの特徴は、音域が広い、テンポが速い、早口、そして8分音符を中心とした単調なリズムという事である。この4つの観点から「夜に駆ける」を考えてみる。

 まず最低音と最高音の差は2オクターブを超える広い音域。さらに、Bメロ・Cメロなど要所要所で並ぶ、矢継ぎ早に言葉が繰り出されるフレーズ。また、テンポの速さも特徴的だ。「夜に駆ける」のBPMは130であるが、近年のヒット曲のBPM(テンポの指標)と比べると一目瞭然だ。

~BPM一覧~
92  pretender/Official髭男dism  
94  白日/King Gnu        
106  マリーゴールド/あいみょん 
87  lemon/米津玄師
78  まちがいさがし/菅田将暉

 そして、8分音符を中心とした単調なリズム。この動画をご覧頂ければ、イントロ・Aメロではメロディラインの9割方が8分音符の羅列であることが分かる。Bメロでは前半こそ複雑なメロディが続くものの、後半はすべて8分音符で、サビでも6割ほどが8分音符が続くリズムで構成されている。
 このように、ボーカロイドの人気曲がもつ特徴を多く持ち合わせる「夜に駆ける」は、ボーカロイドの文脈の延長線上に位置している楽曲と言って良いだろう。

メロディにボカロの要素が詰まっている一方で、ドラムやベースなどの伴奏隊は極めてJ-POP的であることも述べておきたい。
 その一つがコード進行である。「夜に駆ける」のコード進行はその全てが「王道進行」と「Just the two of us進行」で出来ている。前者はその名の通りJ-POP界王道の進行で、平井堅やスピッツ、サザンオールスターズなど大御所アーティストがこぞってこのコードを使っている。後者は比較的最近使われるようになったコードだが、椎名林檎「丸の内サディスティック」で使われると、星野源や宇多田ヒカルなど様々な邦楽アーティストが使用するようになる。
 また、伴奏隊のリズムはBメロ以外、一小節に4回リズムが刻まれる、いわゆる「四つ打ち」で構成されている。BUMP OF CHIKENなど幾多のアーティストがこのリズムを使用し、東京事変のベーシスト・亀田誠治が「四つ打ちビートって“平成ビート”なんですよね」と発言するほど、近年のJ-POP・J-ROCKに深く根付いている。
 さらに細かいところに目を向けると、サビの出だしも特徴的である。この部分では、ピアノを含む全ての楽器が引き一瞬ボーカルパートだけになる。これにより、聞き手の注意を惹きつけ、曲全体をキャッチーにする事が出来るのだが、こうした楽曲構成はOfficial髭男dism「Pretender」「宿命」、back number「高嶺の花子さん」など様々なJ-POP・J-ROCKの楽曲で使われているテクニックである。

 まとめると、「夜に駆ける」はボーカロイドの血を強くひくメロディを持つ一方で、曲の土台となるコード進行やリズムは王道のJ-POPと非常に近い関係にある。つまり、聞き手にとってメロディは新しく感じる一方で、土台となる伴奏は聞き馴染みのあるものになっている。これにより、聞き手は曲をすんなりと受け入れる事が出来るのである。

弱冠19歳の歌姫、ikura

 前述の通り、米津玄師などメジャーシーンに登場したボカロPは音楽のテイストを変えることが多い。その理由は単純で、ボーカロイドの特徴を持つ楽曲は、歌い手にかなりの歌唱技術を求めるからである。ボカロ曲の人気を支えた、音域の広さ、テンポの速さ、早口、といった特徴はどんな曲でも歌う事が出来る合成音声だからできたことであって、人間が歌うのは至難の業だ。

 ではなぜ、YOASOBIはボーカロイド色の強い楽曲をリリースできるのだろうか。答えはボーカルikuraにある。下の動画を見れば彼女の圧倒的な歌唱力をお分かり頂けるだろう。

 この動画は、「THE FIRST TAKE」というYouTubeチャンネルに彼女が出演した時の動画である。このチャンネルのコンセプトは、アーティスト本人に出演してもらい、一発撮りで自身の楽曲を歌ってもらうというものである。原曲よりテンポが遅く、音量も落とされたトラックが、ikura氏の類稀なる才能をより際立たせている。

 彼女の歌の特長は限りなく楽譜に忠実という事である。抜群のリズム感と音感で、言葉が詰まったフレーズでもテンポがぶれず、跳躍や高音があっても完璧に歌いこなす。そして、その歌声は透き通っていて癖がない。透き通っていると言っても、女性シンガーにありがちな弱々しい、よく言えば女性らしい歌声とは一線を画している。彼女の歌声は、鍛錬された鉄のように一つ一つの音の密度と純度が高く、ストレートな力強さを持っているのだ。そして、一つ一つの音を丁寧に発音し、息継ぎが難しいタイミングでも雑な発声が一切無い。

 と、ここまで書くとボカロをご存じの方なら気付いたかもしれない。そう、これらはすべてボーカロイドが持つ歌声の特長なのである。機械出力の音声はいつでも均質で癖のない発声をする。それでいて楽譜に常に忠実で、音程も寸分の狂いが無い。こうした、特長をすべて兼ね備えたikura氏がボーカルだからこそ、YOASOBIでは他のボカロPが成し得なかったボカロらしい音楽をJ-POPシーンで成立させているのである。 

 もちろん、ボーカルが生身の人間であることで、ボーカロイドの短所もカバーしている。ボーカロイドは合成音声のため、音程移動やニュアンスを出す際にどうしても不自然さが生じる。一方彼女は、一つ一つの音を均等に、そして丁寧に発音しているため、音程移動は自然に、エッジボイスやウィスパーボイスといった各所に入るニュアンスも嫌味なく表現されている。 

 つまり、ボーカルikuraの声質と歌唱力によって、ボカロらしい音楽が極めて自然に表現されている。これがJ-POPシーンで、こうしたある意味異端な音楽が受け入れられている要因の一つだろう。

タナトスの誘惑

 2度目を聴いてからの数日間「夜に駆ける」を狂ったように聞き続けた。そして、YOASOBIのもう一つの重要なテーマを知るのにそうは時間がかからなかった。それはYOASOBIが「小説を音楽にするユニット」であることだ。

 そもそもYOASOBIはソニーミュージックが運営する小説投稿サイト「monogatary.com」に投稿された小説を原作として音楽にするというコンセプトで作られたユニットである。そして「夜に駆ける」は「タナトスの誘惑」という小説を基に作られている。

(ここからの考察は小説のネタバレを含む。すぐに読めるので下のリンクから小説を読んでからここから先を読むことを強くお勧めする。)

 膝から崩れ落ちる、という言葉の本当の意味が分かった気がした。驚愕につぐ驚愕。疾走感のある曲名だなあ、と呑気に考えていた過去の自分を恥じた。「タナトスの誘惑」は、飛び降り心中を図った男女の物語だった。そして、そのシーンこそが「夜に駆ける」という曲名に隠された本当の意味だった。

 愕然としながらも、僕はAyase氏の楽曲構成能力に感嘆していた。「小説を音楽にする」というハードルの高いコンセプトをいとも簡単に乗り越えているのだ。

 ここで、「タナトスの誘惑」を4つのパートに分解してみる。まず、屋上の「彼女」から「さよなら」とメッセージが来るシーン。「彼女」の自殺を止めようと必死に説得を試みるシーン。「僕」がタナトスに支配されていることに気付くシーン。そして、「彼女」と共に夜空に向かって駆け出すシーン。これら4つのシーンがそれぞれ「起・承・転・結」となって物語の一部として機能している。こうして物語全体の流れを考えたとき、起承転結の「転」の部分である「『僕』がタナトスに支配されていることに気付くシーン」がこの物語の山場であることに気付く。そして起承転結が一つの流れで完結し、二度山場は訪れない。これは小説という表現媒体では当然のことだが音楽の場合はどうだろう。邦楽曲、とりわけポップミュージックでは通常2コーラス以上で曲が構成されている。これは、一曲につきサビが二回以上登場し、それは曲の山場が複数ある事を意味する。つまり、「小説を音楽にする」というコンセプトでは、本来山場が一つしかない物語を、二つにして表現しなくてはならない。ここにYOASOBIのコンセプトの難しさがある。

 では、こうした難点はどう解決すべきだろうか。解決策として 一つ考えられるのは、1コーラス目で物語を完結させてしまう、という方法である。しかし、1コーラスで曲が終わってしまえば曲としての厚みを欠く結果になってしまう。もし2コーラス目を作ったとしても、聞き手は2コーラス目で飽きてしまうほか、2コーラス目が蛇足となり小説の世界観を邪魔してしまう。「夜に駆ける」ではこの方法を取らず、2コーラスの構成の中で聞き手を飽きさせず小説の世界観に忠実に曲を作り上げている。「夜に駆ける」の曲構成を見てみよう。

1コーラス目
イントロ → 間奏 → Aメロ → Aメロ → Bメロ → サビ×2 → 間奏
2コーラス目
Aメロ → Cメロ → 間奏B → Dメロ → Bメロ → サビ(-1) →サビ(+1) → アウトロ
※ -1,+1は1コーラス目とのキーの差

 こうして文字にして起こしてみると、1・2コーラスでサビに至るまでの過程がまるで違っているのが分かる。それぞれのフレーズ構成を変えることで、聞き手を飽きさせていない。また、1コーラス目のAメロと違い2コーラス目ではピアノが入ったり、Cメロでは曲中で初めて電子音であるシンセサイザーが伴奏として登場する。このような細かい工夫でも聞き手の注意を惹きつけている。

 一方で原作にかなりの程度忠実であることも述べておきたい。曲構成を先ほどの起承転結の4つのパートに再度分解してみる。


イントロ → 間奏 → Aメロ

Aメロ → Bメロ → サビ×2 → 間奏
Aメロ → Cメロ → 間奏 → Dメロ

Bメロ → サビ(-1)

サビ(+1) → アウトロ

 このように起承転結に分解してみると、「承」の部分が曲の大半を占めていることが分かる。原作では「承」の部分での主人公の心情の変化が、物語の山場である「転」につなぐ重要な位置を占めており、曲中でもかなりの程度忠実に再現されている。

 それでは、原作のストーリーが歌詞でどう表されているのか順を追って見ていこう。

ありきたりな喜びきっと二人なら見つけられる
騒がしい日々に笑えない君に思いつく限り眩しい明日を空けない夜に落ちてゆく前に僕の手を掴んでほら
忘れてしまいたくて閉じ込めた日々も抱きしめたぬくもりで溶かすからで溶かすから怖くないよいつか日が昇るまで二人でいよう

  これは1コーラス目のBメロ、そしてサビである。主人公の「僕」は「彼女」の自殺を止めようと、明るく未来への希望の言葉をかける。


君にしか見えない何かを見つめる君が嫌いだ
見惚れているかのような恋するような
そんな顔が嫌いだ

 しかし、2コーラス目に入るとそれまでの「彼女」を励ますポジティブな歌詞からがらりと変わり、「彼女」が恋する死神に対し嫉妬するという、ある種主人公の心の影の部分が出始める。ここで重要なのは、2コーラス目に入ってすぐ主人公の心情の変化が歌詞に現れるという事である。この歌詞はAメロに乗せられているが、もちろんこのメロディは1コーラス目でも使われている。これにより、同じメロディがサビの後に登場することで聞き手は曲の山場を終えたと知覚しマンネリを感じてしまう。しかし、ここで1コーラス目を通してぶれることになかった主人公の陽の感情が一変し、何か不穏で物語が動きそうな予感を与えることで、聞き手を良い意味で緊張させ、曲への注意を再度惹きつけている。


もう嫌だって疲れたんだってがむしゃらに差し伸べた僕の手を振り払う君
もう嫌だって疲れたよなんて本当は僕も言いたいんだ

 これはDメロの部分である。「僕」は説得に応じない「彼女」を見て自分の気持ちに気付き始める。本当に死にたいのは他でもない自分であるということに。


「終わりにしたい」だなんてさ 釣られて言葉にした時
君は初めて笑った 

 そして、「僕」は心の奥底にあった自分の感情を吐露する。「彼女」は笑みを見せ、「僕」は「彼女」という死神に魅せられていたことに気付く。


騒がしい日々に笑えなくなっていた 僕の目に映る君は綺麗だ

 ここで特筆すべきは、Bメロとサビの間に一瞬の空白があるという事だ。作中で最も強烈なインパクトを残すこの「転」の部分の後の、この一瞬の空白が、聞き手を焦らし息の詰まるような緊張感を与える。そしてサビのメロディ自体も転調していて、半音低いメロディが歌われている。これにより、エキセントリックなサビのメロディが一気に落ち着いた雰囲気に代わったことで、「僕」の死の直前のような安らかな気持ちが再現されている。

 そしてサビは再び転調して、曲はクライマックスへと駆け上がる。

変わらない日々に笑えなくなっていた 君は優しく終わりへと誘う
二人今、夜に駆けだしていく

 転調したことで一つ目のサビより力強いメロディとなる。ここで描かれているのは「僕」の一点の曇りもない晴れやかな心情である。「僕」はタナトスに導かれるまま夜空へと駆け出す。こうして、「僕」と「彼女」の物語は幕を閉じる。

 このように、Ayase氏は小説で書かれた原作を音楽という全く性質が違う表現媒体で完璧に再現している。さらに、音楽の特性も活かして原作の本質の部分を余すことなく表現しており、原作への高い理解度と楽曲を俯瞰する力を兼ね備えたAyase氏の力量が如実に表れている。

 そして、こうしたコンポーザーの技量こそが「夜に駆ける」の爆発的な人気を支えているのである。最後にもう一度マーケティング的観点から考察をしてみよう。ストリーミングサービスでの再生回数を再生者数 × 一人当たりの再生回数と因数分解した時、ストリーミングサービス利用者のマジョリティである20代をターゲティングできている事が「夜に駆ける」の驚異的な再生回数を支えている、ということは前項で解説済みである。ここで、乗算のもう一つの項である「一人当たりの再生回数」について考えてみよう。無論、「小説を音楽にする」というコンセプト自体が一人当たりの再生回数に貢献しているという見方をすることもできる。普通の曲と違い小説という別の表現媒体とリンクさせることで、小説を読んだ聞き手がもう一度曲を再生する、といった行動が取られる事は自明であろう。しかし、こうしたコンセプトがあるだけでは、何度も再生する人、つまり曲のリピーターを作ることはできない。原作者の星野舞夜氏による素晴らしい小説の世界観と、それを極めて高い完成度で楽曲として表現したコンポーザーAyase 氏の技量が、聞き手を「夜に駆ける」の世界の”沼”へと嵌らせていくのである。

”エモい”音楽とは何か

 ここまで書き上げてから僕は最初にこの曲を聴いた時の、あの感触についてしばし考えた。

 世の中に、”良い曲”というのは星の数ほどある。メロディが良い曲、歌詞が良い曲、トラックが良い曲。ストリーミングサービスが発達した現代、いつでも、どこにいても世界中の音楽を聴くことができるようになった私たちは、いわゆる”良い曲”に毎日巡り合うことができる。でも、たくさん出会う”良い曲”の中で、本当に好きになる曲は一握りだ。一度聴いて、良い曲だ、と思ってもそれ以降一度も聴いていないなんて事はざらにある。それはなぜだろうか。耳でしか聴けていないからだ、と僕は思う。確かに、”良い曲”を聴いているときは楽しい。耳が喜んでいるのを感じながら、「あぁ良い曲だなあ」、と思う。でもそれは表面的なもので、ひとたび曲が終わると新しく流れる違う”良い曲”に目移りならぬ耳移りして、また「あぁ良い曲だなあ」、と思うのだ。そんなことを繰り返しながら私たちは世界中に溢れる音楽を消費し続けている。

 でも、本当に好きになる曲は違う。本当に好きになる曲は、耳なんて通り越して、体に、心に、魂に直接響いてくる。僕が初めて「夜に駆ける」を聴いたとき、そんな感覚があったのを鮮明に覚えている。雷のような衝撃が脳天を衝くと、電流が血管を伝って全身を駆け巡り、細胞一つ一つが音楽を吸収しようとするあの感覚。あの瞬間、耳でも頭でもなく本能が音楽を欲していた。

 ”エモい”音楽とはそういう音楽だと僕は思う。ただ耳を心地良くさせる音楽ではなく、曲の持つとてつもないエネルギーで殴りかかってくるような、そんな音楽。そして、殴り合いの末に魂に響いてくる音楽。そんな音楽が僕は好きだ。

 音楽の消費スピードが10年前、20年前と比べて飛躍的に上昇している現代。長く愛される音楽はそういった”エモい”音楽になるのではないだろうか。曲調などは問題ではない。ただ作り手のエネルギーが込められた、中身の詰まった音楽。そういう音楽を僕は聴きたいし、認められるべきだと思う。

(Tom)

最後までお付き合い頂き、嬉しい限りです。またどこかで。
※本文中の考察は全て私見であり、YOASOBIの解釈ではありません。

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