世界が複雑すぎてつらい

まったくまとまってないけれど吐き出しを。

朝、目が覚めたら、パリが大変な事になってて、メッセンジャーには元クラスメイトたちのパリにいる友人の安否確認のやりとりメールがたくさん届いていた。

「テロが起きた」

と聞くと以前よりゾッとするようになった。

「どこの国で?どの都市で?そこには誰か知人は住んでいたっけ?」

そうじゃなかったらたいして気にも止めないのか、と言われるとそうなのかもしれない。いやそう言う訳ではないけれど、誰か知人が住んでいる地域より関心は薄い。あまり認めたくはないけれど。

Facebookでトリコロールに染まった友人たちのプロフィール画像を見た時、正体のわからない違和感を覚えた。
今回の被害者と、被害にあったパリを励まし寄り添う気持ちにはまったくネガティヴな事などないはずなのに、私にはどうしてもそれに参加する気が起きなかった。

あなたに寄り添いますよ。という意思表示は被害者にとって心強い励ましになりうるのに、それが出来ない私はおかしいんじゃないか、と悩んだ。悩みながらTwitterやFacebookを漁り、この気持ちがなんなのか同じような人がいないか探してた時目に入ってきたのが以下の記事。

『Facebook』プロフィールをトリコロールにする前に考えたいこと(ふじいりょう) - Y!ニュース

そしてこの記事
代弁されず報道されず死んでいく人たちのこと|Taejun|note(ノート)

そのほかにも、思ってたよりも沢山の人が違和感を持っていて少し安心した。

私は、自分の気持ちの不均等さに納得がいってなかったのかもしれない。タイで、トルコでテロ事件があった時、私はここまでのショックを受けなかったし、シリアで空爆が、というニュースを見ても悲しくはなりつつも「シリアだからな」という気持ちがあった。今回の事件を知った直後にpray for Paris とFacebookにポストした後、自分が偽善ぶってる気がして嫌になった。
翻って、普段は世の中の事に関心がないようなポストばかりしているのにここぞとばかり画像をトリコロールに染める友人にも納得がいかなかったんだと思う。その人たちがどんな考えでボタンを押したか想像もせずに。
Facebookは社会問題や世界情勢、それに対する自分の意見をポストするのにはあまり適したツールではないのは理解している。日頃、昨日食べた晩ご飯や飲み会や犬や猫や日常の様子ばかりをアップしている人たちが社会問題をないがしろにしているかといったら絶対そんなことはない、私も9割そんなポストしかしていないし。
そして今回だって「なんとなく」でトリコロールに変えた人もいない…と思う。

目に見える形で自分の意見を示すのはとてもとてもいい事だ。こういう風に気軽に意思表示できるシステムは素晴らしいとも思う。

でも私もはどうしても違和感が拭えないのでプロフィール画像を変えることは多分無いだろうな。

なんかFacebookのことばっか書いちゃったうえに私の気持ちは書き切れてないな。文章力。。。イスラム教は素晴らしく平和的な宗教だってムスリムの友達に力説されたこと書こうと思ってたのに。

テロは許されない。それはまぎれも無い事実なんだけど、だからテロリストは真っ黒な悪だ、という単純な話ではなくって。私の知らない複雑な歴史がそこにはあって。考えれば考えるほど良くわからなくなって、でも私がこうやって悩む事に何の意味があるのか。憎しみが憎しみを生むって分かり切ったことなのに、その連鎖を断ち切るのはとてもとてもむずかしい。世界が複雑すぎてほんとつらい。つらいけどそれに何の意味があるんだろう。ループ。







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