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ファインアート写真とは何か・・写真の価値基準を探る

「ファインアート写真の見方」:福川芳朗、玄光社を読んでみた。著者の福川芳朗氏と「2 次元フーリエ変換による写真の客観的評価に関する研究」を共同でされている伊藤雅浩氏が、noteでその紹介をされているので、ここでリンクを貼っておきます。

興味があったのは、写真の価値評価の方法である。かつて、良い写真とは何か? という記事を書いてみたのであるが、そこでの自分なりの結論は、「良い写真とされる判断基準は主観に頼らざるを得ず、良い写真を撮るための普遍的な客観的基準は存在しない。」であった。

「ファインアート写真の見方」では、写真をその属性によって「パーソナルワーク」、「商業写真」、「ファインアート写真」に分類し、それぞれの価値基準を定義しています。これを読むと、一般の我々が議論しているのはほとんどパーソナルワークの価値基準であることに気づく。
主観的な感覚による選定基準を奥底に持ちながらもそれは誰しも隠し、公募展では、入賞基準である、撮影技術、構図や色彩のバランスのなどをあたかも客観的な基準があるように選定者が選定する。しかし、それは選定者個々人の主観に過ぎず、撮影者本人が良いと思う感覚とはずれがあるのが通常である。しかも、その基準は複数の選定者間でも異なるため「良い写真」の基準は不明とならざるを得ない。

一方で、オーディオ評論家の長岡鉄男氏が言った趣味の定義も紹介されている。氏の定義によると、趣味とは「手段が目的化すること」だそうだ。。まさに、言い得て妙だと思う。カメラを取っ替え引っ替えしてその良し悪しを論じ、レンズ沼にハマってその写り味を確かめる。写真の話はしないでカメラとレンズの話に終始する。知人が良い写真を撮ったときは、写したカメラはなんですか、レンズはと聞く。あたかもそのカメラやレンズで撮ればその素敵な写真が撮れるかのように言う。また、撮影技術の向上に励む。綺麗によく写すためには良いカメラやレンズも必要だし、撮影技術の追求も必要。しかし、それらが目的化してしまうと、良い写真を生むこととは必ずしも一致しなくなる。それはそれで楽しいから良しとするのか、それとも「写真」自体のあり方を追求するのか、意識する必要がありそう。

ファインアートとしての写真は、現代アートに共通の「問い」がそこにあると指摘する。してみると、写真がファインアートとして成立するには、写真に「問い」を重ねなければならないことになる。
そこで、写真でどう問いかけようか、となるわけだが、写真というものは、通常は、目の前に展開される風景なり人物の映像を「写す」行為であるから、絵画や彫刻などのように、自らの意思をそこに創り出しにくい。
写しとった映像はいわば「借景」である。借りてきた映像から思い浮かぶ概念が看者と撮影者とで共通しなければ、撮影者の意図は伝わならい。

したがって、「借景」では不十分だと思う撮影者は、演出等により被写体によるメッセージを意図的に映像として作り出すかもしれない。その段階で、写真は写真でなくなるのではなかろうか。もし、「借景」により「問い」をたてて間接的に自分の意図を看者に投げかけることがアートとしての写真だとするなら、それって、何か、パントマイムのような感じですね。

そんなことを考えるこの頃です。


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