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『谷崎潤一郎の作品紹介と解読 題7回 日常における出来事』

いよいよ「日常における出来事」の記述になる。谷崎の作品がより質を増してくる。中期以降の作品にこうした系列が加えられたのは何らかの啓示が谷崎にあったからに違いない。「蓼喰う虫」が初めとなるが、この作品は自らの経験を題材としている。従って「自伝や空想」が変化したものと推測される。幼いころの体験を現実の自らの体験へと入れ替えたのである。「猫と庄造と二人のおんな」も「日常の出来事」な作品であり、「春琴抄」の妖しい内容とは異なって可笑しさが溢れているが、良い作品である。ちょうど四十歳半ばの作家として脂の乗った時の作品群である。日常の出来事を丹念に描くことが谷崎に喜びを与えたためでもあろう。その後も続くのである。

「蓼喰う虫」のあらすじは次の通りである。斯波要の妻、美佐子は夫の公認の下で他の男阿曾を恋人として肉体関係を持っている。彼ら夫婦には何もがない、形だけの夫婦で律義に暮らしている。要は美佐子に欲望が湧かない。ただ、外人の娼婦とは関係を持てる。冷めた夫婦はもはや別れるしかない、離婚の準備を進めている。息子の弘へはまだ知らせていないが感ずいている。親族の高夏へ仲裁や段取りを依頼するが断られる。要は妻の親なる義父と若い妾のお久と浄瑠璃見物、時には遠くの淡路の浄瑠璃見物へと出かける。要は愚鈍ながら若いお久に魅力を感じている。妻美佐子とともに義父の了承を得るために義父の家に行くと、義父と美佐子は料理屋で長話をする。要はお久に魅力を感じながら風呂に入るなど寛いでいるのである。

「蓼喰う虫」は夏目漱石の「彼岸過迄」を思い浮かばせる。「彼岸過迄」は従妹なる結婚の約束をしているとも恋人とも言えず、他に嫁ぐともしない若い男女が互いの心理に葛藤しながら何もが生じない。ただ、時だけが経過していく。この点だけが同じで、根底の心理はまったく異なっている。漱石と谷崎の決定的な違いは心理的な緊張感や葛藤の有る無しである。「蓼喰う虫」は夫婦でありながら離婚の決意をしても、「彼岸過迄」のような心理的な緊張感や葛藤ない。ただ、時だけがゆるりと経過している。どうなるのだろうと患わせない。漱石の「彼岸過迄」はどうなるのだろうと読者は心配する。全く未来が読めないためである。「蓼喰う虫」は「彼岸過迄」と異なって未来を推測することができる。なぜなら、要は他の女に性欲を満たす必要があり若い女に魅力を感じている。と言うより、要は同等の知力を持ち何事にもそつのない美佐子よりも、自らの思いのままに振る舞って体の関係を結ぶことのできる女こそが必要で、義父の若い妾を教育する手管を羨ましがっている。つまり、何ら女を得ることに心理的な葛藤など生じない。その決断をしていないだけである。ところが漱石の場合、決断が重すぎて心理的な葛藤は人間を壊滅させるかもしれないのである。

要と高夏との娼婦談などの会話は一般的で退屈でありながら、女についての論点を整理して以上示したように未来の予測を可能にする。また、美佐子も恋人の阿曾を知らなければ良かったと後悔しているが、この物語の結末は決まっている。もはや夫の要は品位と知性のある美佐子を手放して次の行動に移らなければならない。時は漠然と経過しているのではない、緊張さや葛藤はないけれど、時は因果なる出来事を内包していて、この出来事は必ず現れ出てくるはずである。この作品の良さは人形浄瑠璃の話の味わい深さにある。この浄瑠璃を描いた文章の見事さには感嘆する。女は若くて人形として自在に操れれば良いとの思いも切に伝わってくる。マゾ的な谷崎には珍しい作品でありながら、谷崎の夫婦関係の実話が下敷きになっていて作品化したためであろうか。人間関係の濃密な空間を描きながら淡泊である。先に未来を予測できると述べたが、谷崎の妻の譲渡事件などもあったこのなども影響していると思われる。ただ、それほど関心のある事件ではない。要は基本的にはテクストなる作品そのもののが読み解きべきものである。

「猫と庄造と二人のおんな」のあらすじは次の通りである。庄造は猫リリーを飼っている。鯵の与えようや抱き方など、とてつもない可愛がりようである。以前の妻なる品子が、妻の福子に猫を譲り渡すように手紙をよこす。品子は庄造の母や知り合いの塚本などの結託に寄って財産家の福子に妻の座を奪われたのである。品子は猫を手元におくことでまた庄造に会えるかもしれないという、また身持ちの悪い福子に代わって妻の座に戻ることができるかもしれないという淡い期待を持っている。福子は優柔不断な庄造を説得して猫を品子に譲り渡す。品子は嫌っていた猫がとても可愛くなる。庄造は品子の魂胆を見抜きながらも、猫に会いたさに品子の住んでいる家にまででかける。すると猫は今までなついていたのにすっかり忘れてしまったのか、庄造に見向きもせずに冷たい態度である。

この「猫と庄造と二人のおんな」はユーモア溢れる作品である。才能がなくて操り人形のような庄造が一番恋する猫に見捨てられるなど、マゾ的な点が下地になっていて何とも言えず愉快である。この作品は「春琴抄」の三年後に発表されている。結局、「痴人の愛」なる作品で肉体を主眼にしてマゾ的な心理を書いていた谷崎が、「蓼喰う虫」を皮切りに、日常の時間性を軸に小説を書くようになる。「春琴抄」ではより緊迫した男女関係を描いて、そして「猫と庄造と二人のおんな」によってまた日常に戻っている。幾分緊迫した日常ものんびりとした戯画的な日常もある。こうして日常の内へと小説の奥行きが深まり、日常生活の時間軸上に現れる出来事と些末な心理を描き重ねて時空間が描かれるようになってくるのである。この空間は作品を経るに従って広がっていくが、この高みにある作品に向けて登り詰めつつある途中の作品群が「蓼食う虫」であり、「春琴抄」であり、「猫と庄造と二人のおんな」であると言える。つまり「蓼喰う虫」の日常的時間に「春琴抄」と「猫と庄造と二人のおんな」の日常的な出来事が加わって、「細雪」という日常的時間における出来事の連鎖という、それも永続的で膨大な時空間を内包した作品が生まれたのだと言える。

この「細雪」について簡単に感想を述べると、日本の文学史上における名作の一つである。日本文化の紹介として海外で評価が高いとドナルド・キーンが解説で述べていたが、また、田辺聖子の解説「女の文化の根の堅州国」にて、初めて女の文化を小説によって広めたと述べているが、そうした一面だけではない豊かな内容を持ち合わせている。これは「根の堅州国」の「王朝文化」に行き当たるだけではない。女たちの日常生活を語るだけで、源氏物語を彷彿とさせる、澱みのない緩やかに流れる文体が、日常を語ると同時にその日常に隠された背後も透かして見させて、かつこの日常なる世界が連続していることを厳然と示しているためである。花見や蛍狩りなどの優雅な風俗と日常の微細な心理を語りながら、これらの情景が時間の連続性の上に生じていることを鮮やかに表している。まずは、簡単に小説のあらすじを紹介したい。なお、本書は、新潮文庫では、上、中、下に分かれて三冊であるが、中央文庫では一冊であり約900頁と厚い。

御大家であったが、父が死に今は没落している蒔岡家の美しい着物が似合う四姉妹の物語である。長女の鶴子は養子の辰雄を迎え、本家として大阪船場に暮らしているが、銀行員なる辰雄の転勤で東京に移っていく。格式を重んじるけれど子たくさんで鶴子は次第に窮する暮らしを送らざるを得ない。次女の幸子は阪急蘆屋に夫貞之助と住んでいて、娘の悦子もいる。三女雪子は婚期を逸して三十才を過ぎても縁談がなかなかまとまらない。四女妙子は奥畑家の倅との恋愛が新聞沙汰事件を起こすなど奔放である。人形つくりや洋裁で独立しようとしているが、その本心は良く分からない。こうして、話は次女の幸子の阪急蘆屋の分家を中心にして展開する。本家の辰雄はまだ嫁に行かない義妹の雪子や妙子を東京にて暮らすべきと主張し、雪子はいやいやながら東京に行きながら、口実をもうけてもしくは、かつ幸子に口実をもうけさせて蘆屋の分家に戻ってくる。妙子は仕事のためとアパートを借りる、東京には行かない。燐家のシュトルツ家との交流、妙子の弟子のカタリナの家族との付き合いが暖かい交情と同時に、暗く推移して戦争に巻き込まれていく世界の国々の情勢を背後に描き出している。

「上」では雪子の二、三の見合いが書かれている。雪子は線が細くて人見知りであるが、年齢以上に若く見える。ただ、縁が無いのか、縁談は一つもまとまらない。「中」では奔放な妙子を中心に描かれている。妙子は暴風雨の災難から救い出してくれた写真屋、板倉の奮闘で奇跡的に救助される。板倉は暴風雨のさなか妙子を救い出せるように相当の準備をしていたのである。こうして恋人奥畑の放蕩に愛を見出せない妙子は、奥畑が紹介してくれた板倉と親しくなり、結局結婚まで考えるようになる。ただ、その板倉も耳の手術からなぜか黴菌が転移して足を切断し結局は死ぬ。「下」では妙子との奥畑との交際の復活、雪子の見合いを主に描いている。初めて雪子は見合いの相手から断られる。電話での受け答えができずに相手を怒らせたためである。妙子は鯖鮨のせいで赤痢にかかる。奥畑に豪華な贈り物を貢がせながら嫌いで、赤痢からの回復後、妙子はバアテン三好と付き合い妊娠する。同時に雪子に御牧子爵の庶子、実との縁談が持ち上がる。何とかこの縁談をまとめようと、幸子と貞之助は不品行な妙子を入院させ隠してしまう。幸子と貞之助の努力が実ったのか、幸運なことに雪子は実と結婚することになる。ただ、妙子はさまざまな無理がたたって赤ん坊は逆子になっており、医師の手違いで生まれ出た子は窒息し死んでいる。そして、嫁ぐために上京する雪子は嬉しいことも何ともないと言って、下痢が治らずにそのまま列車に乗って上京するのである。

本書の最大の良い点は、最初にも触れたが日常は瞬間から構成されているのではなくて、隙間なく連続して時間軸上を流れている出来事が連鎖して成り立っていると示していることにある。これは先ほど述べた澱みのない緩やかに流れる文体がそうと錯覚させるのかもしれない。ヴァージニア・ウルフの日常が、各瞬間の積み重ねから成り立っていると示しているのと比較し、本小説における日常は出来事を伴いながら鴨川の水の流れのように緩やかに連続性を保っている。それは、現在ばかりではない、過去からも文化の継承があるためか、悠然と繋がっていて時間が隙間なく連続している。更に意識も日常的な疑念と思いやりを丹念に描いて連続して繋がっている。こうしてみると、「痴人の愛」なる小説にある種の冗長さを感じていたが、その原因が分かったのである。それは「痴人の愛」が妙に偏在した意識のみを描いて、その意識を正当化しようと書いているためである。

従って、「痴人の愛」よりも「細雪」の方が作品としては、断然に成功していると言える。こうした谷崎の意識の流れは「吉野葛」の短編に表れている古から流れ伝わってきて現在に結び付けている愛おしさの意識が、現在に集中して若い田舎娘を嫁に娶ると言う以上に鮮明な日常への愛おしさを導き出している。無論、この意識は淡々と綴っている文章そのものが生み出していると言える。現在を描写した「蓼食う虫」や「猫と庄造と二人の女」なる作品の延長線上にありながら、作者を作品の背後に隠して、より日常生活の細やかな出来事の描写を冷静にかつ客観的に行うことで成り立っている。この愛おしさの意識とは日常生活を綴る作者の暖かい視線である。こうして「細雪」は質的により高い位置を確保していると言えるのである。

中編小説「春琴抄」の成功はこうした「細雪」のような愛おしさを含んだ意識の流れではない、意識を排した出来事の連鎖、それに基づいて反応する行動のみを描いていることによる。即ち叙事詩的な形式にある。当然、文章の緊密さが礎として確固としてある。この手法は端的に処女作「刺青」にも表れている。なお、「痴人の愛」などにおける谷崎の肉体への拘泥は本書「細雪」にも散りばめられている。けれど、少しばかりの色取りを添えているだけである。脚気の予防のための「B足らん」や結婚すれば治るはずの雪子の眼の淵にできる隈、悦子の黄疸、幸子の流産などがある。なお、幸子の流産と妙子の死産は同一には論じられない。経験豊かな産婦人科医が妙子の逆子を死産させて謝るのは恣意的である。死産させようとする作者のある種の強い意志が働いている。それは生の否定でも肯定でもない、道徳的にも無関係である。生けるものを死なせることへの痛烈な批判であり抵抗である。このため生きるものを産ませないことにしたのである。こしたうがった見方は谷崎の妻が病弱故に堕胎した経験に基づく話であっても無理な解釈ではない。なお、「細雪」は1944年に「上」を作り、1948年に完成させたとのことで、そうした時代的な影響もあるに違いない。この辺りは何かしらの解説書を読めば分かるはずである。

「細雪」と「明暗」のどちらの作品が優れているかなんてちらっと頭をよぎるが、どちらも優れているに違いない。これに並ぶ作品は「豊饒の海」であるのだろうか。森鴎外の「渋江抽斎」でもないだろう。明治以降の小説作品において、もっと思い浮かべようとしたけれど、読んでいる作品数が少ないために少しも浮かんでこない。阿部公房の観念的な小説が浮かび上がってこないのは意外な感もする。そういえば、大江健三郎の「燃え上がる緑の木」も良かったと記憶している。大江の「水死」などは漱石の「こころ」なる作品と軍国主義を批判しているだけの作品であった。けれども「燃え上がる緑の木」は緑の木の生命を燃え上がらせる力強い文章であったはずである。こうしてみると谷崎純一郎には二面性がある。即ち、芥川雄之助に悪魔と呼ばせた肉体への拘泥と、意識を時間軸上に連綿とさせる永劫性である。ただ、この二面性は繰り返すが、肉体への拘泥は谷崎の意識の内にあって明晰に作品として記述されている。でも無意識な時間軸上の永劫性を持った意識は記述されている作品からこそ密やかに浮かび上がってくるのである。これらが谷崎純一郎の心理の内にどのように絡んでいるかは作品を読み解いて更に詳しく調べる必要がある。それにしてもこの「細雪」は上質な香りのするとても良い作品で好きである。

「台所太平記」も良い作品である。谷崎家に仕えていた女中の話である。無論、谷崎は女中なる呼び名を嫌っていて、いろいろ工夫していたようである。本当の名前も置き換えて呼ぶなどして気を使っている。主人の千倉磊吉の好色気味な性格は表立って現れ出ることがない。女中たちの引き起こす出来事が主に綴られている。この出来事が人間の深層心理に届いていて、それに対応する磊吉や妻の賛子の溢れる人情味が、人間を肯定して幸福な未来を約束している。戦中の悲惨さや戦後の混乱期において、主人夫婦の女中に接する態度は慈愛に溢れている。どうして、ここまで対等とも言える関係を維持できたかは分からない。やはり谷崎の人間に対しての肯定感が浮き彫りにされてそのように接しているためであろう。他の作品においても谷崎が否定的に描いた人物は若干名を除いて記憶にない。無論、文壇仲間では激しい罵り合いもあったようであるが、作品においては「痴人の愛」の女をめぐった生じた争いぐらいしか記憶にない。

谷崎作品の文章は通常、長めでゆったりとしている。ゆったりとした語り口が滑らかに動けば暖かみのある内容を彷彿とさせる。こうした文章は、人間を肯定的に分け隔てなく描いて人情味を忍ばせる内容に良く似合うはずである。例えば「盲目物語」や「吉野葛」である。これらは決してマゾ的な肉体を描いた作品ではない。マゾ的とは鞭打つ瞬間性と俊敏性を持たなければならない。ゆっとりとした鞭打ちなどない、あるはずがないのである。従って谷崎のマゾ的な態度は擬態である。女が好きであって女に憧れているためにこそ、マゾ的な擬態に結びついている。無論主役は女でありながら、谷崎は決して女に尻に敷かれて鞭を打たれているわけではない。背中に足を乘させて楽しんでいるだけである。主人として若い女を教育し、放たれてくる色香に楽しみ酔っている。こうした谷崎の楽しみは戦中戦後の芳しくない状況の中で、源氏物語の現代語訳と合わせて苦境を乗り越えさせる源になったと思われる。

さて、「台所太平記」の内容を簡潔に紹介したい。女中の特徴と彼女たちが引き起こした出来事だけを簡単に示す。初は美人ではなかったけれど、肉付きは豊満で皮膚の色は真っ白である。雑巾で拭いたように足の裏も真っ白である。田舎の鹿児島では夜這いの風習があるが、夜這いをされたことのない唯一の女である。磊吉はこの初の足で踏まれるのが好きである。初の姉は弟に貢ぐために三千円で売られている。梅は癲癇の症状があって、ガタガタ震えていることがある。嘔吐することもある。じっと空間の一点を見詰めたまま音もなく歩いて便所に用足しに行くこともある。結婚すれば治ると医者に言われて、実際結婚して子を産むとおおかた治ったのである。小夜は磊吉の鉛筆を無断で使って、引き出しにわび状を入れる。ねちねちした話し方をする女で、磊吉は怒って妻の賛子の説得に拘わらず首にする。

小夜が辞めると節は田舎に帰ると言うが、別の宅に紹介する。節は小夜と同性愛の関係にあったらしい。小夜を斡旋した先の女主人は穢わしいと言って、彼女たちが一緒に寝ていてダブルベッドなどを処分する。小夜が田舎の徳島から小包みを送ってくる。するとすき焼き鍋の古いのやらガラクタが出てくる。こっそり集めていたものを返してきたらしい。駒は「男性の精子は何処の薬局に行ったら売っているのでしょう」と言うなど、突飛なエピソードがたくさんある。嫁に行くとき妻の賛子が枕絵を見せると、熱心に息を凝らして見詰めて「こんなのを見るのは好きでございましわ」と言う。駒は人の声色を真似るのが得意である。怪しげな人が戸外に居ると、五六人の声色を真似して退散させてしまう。犬のダニを五千匹追い払ってぽろぽろと泣いている。犬が可哀そうでたまらなかったらしい。

鈴には磊吉自ら教育をして、鉛筆で文字の練習をさせる。自らも勉強して難しい漢字も書けるようになる。銀は自転車に乗って橋から転げ落ちて眉間から血を流して痣が残る。定は再婚した母親の元に居づらくなり、実父も再婚して、姉も悪い男に騙されて子がいる。この居場所のなかった定が女中の中で最初に嫁に行く。孤独で優しく他人のために骨身を惜しまず働くため結婚相手の母に見染められたのである。器量よしは銀と鈴である。銀はタクシーの運転手と恋仲になる。タクシーは磊吉の家と買い物などをする熱海とを結ぶ貴重な役目を持っていた。銀は運転手の光雄と石段の下でキスをしている。車内で二人抱き合っているなど熱い仲である。それに銀は光雄のために田舎の祖母から都合された三十万金を貸すなどして、博打などなどの悪行から手を引かせるつもりである。銀は鈴からあるところから調達してもらった五万円も貸している。ただ、同じ女中の百合とも光雄は恋仲にある。

百合は磊吉の外食時の最高のお供である。磊吉に気後れなく物言いをするためである。光雄との仲が破局して後に、百合は有名女優の付け人になる。元々からそういう希望を持っていたので妻の賛子が世話したのである。ただ、女優の代わりになった積りで周囲の者たちに威張り散らすため有名女優も腹に据えかねていた。結局、炭坑の落盤事故で脳天から顎にかけて鉄の棒のようなものが真っすぐに突き刺さって死んだ父の元にもいかず、豪勢に集めた品々と持ってある会社に勤め口を見つけ出したらしい。百合は光雄が男性の象徴たる一物の偉大さを自慢して見せびらかすと、助平野郎と言って怒っている。体の関係はなかったらしい。銀はすでに女になっているとの噂がある。結局、銀が光雄と結婚する。光雄も根気良い説得を受けて、賭博、女漁り、競輪、負債の山などの悪行を止める。鈴はラブレターを受け取った男としばしば喧嘩をしていたようだけれども、清い交際をしていて、結局縁談としてまとまる。

磊吉は女中たちの子の名付け親になったり、妊娠時の「帯祝い」を行ったり、こうして晩年になったある日、昔の女中さんたちなどにも来てもらって喜寿のお祝いの宴を開く。健康を祝して万歳をあげる。最後に本書について再度言うが、谷崎のゆったりとした文章が、女中が好きな磊吉と人間味溢れる女中の小話を丹念に描いて、傑作とも言えるのである。これは夏目漱石の「坊ちゃん」と同等に値打ちのある作品である。

以上、「日常の出来事」なる作品を紹介したが、これらに含まれる時間に空間、そして出来事なる思想は『谷崎潤一郎の作品紹介と解読 題10回 思想性』にてもっと丁寧に解読したい。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。