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『谷崎潤一郎の作品紹介と解読 題10回 思想性』

この第10回で示す「思想性」とは第9回で示した「精神性と肉体」の内容をより発展させたものである。いわゆる谷崎の作品群にて明示的に示されている思想に、さらに非明示的な思想を加えている。非明示的とは谷崎の作品群において、言わば無意識のうちに記述されている思想を見出して読み解くことができるということである。作品を読むに従って露わになってくる谷崎の根底に潜んでいる思想が明確になってきて、その思想を言葉で語ることができるということでもある。ただ、後半に示す芥川龍之介との論争や戦争中の態度などは明示的であることは断っておきたい。これらは谷崎の思想をより明らかにするために記述したものである。また、この「思想性」も話を簡単化するために箇条書きにて行いたい。

1) 時間の連続性と出来事
出来事とは何か。出来事とは我々が実現すると同時に、我々を待ち受けるものであり、この出来事によって我々は自己を見出して表出することができる。出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものである。これを小説の中で描かれる出来事として言い直せば、作家が実現して我々に到来させて、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるものとして作動する。そして小説の中に描かれる出来事の時間(=時制)とは、決して出来事を実現して実在させる現在ばかりではなく、出来事が存続し存在する限りない永遠の時間に拡張できるのである。すると人間が存在することのできる空間とは時間が流れる場となる。時間が流れていると証することのできる場として空間はあることになる。

こうして流れる時間は瞬間ではなくて連続して持続する。デジタル的ではなくてアナログ的に持続する。この時間の内に空間を通じて、出来事は隙間なく到来させられ読者に提供される。隙間なく持続するとは、まさに小説の中に意識のそのものが瞬時も欠けることなく流れているのである。言い換えれば、持続とは自己のなかでも空間内でも同一であるようなさまざまな時間的区切りのない連なりであり、相互に浸透した多重性である。多重性であることに注意されたい。そこではおのおの要素は他の要素と連帯していて、そしておのおのが意識を代表させてこの空間に到来させているいるのである。たぶん空間は見せかけ以上に豊穣である。というより豊穣であるように見せかけている。即ち時間が包容力を持っていて、どのような出来事を含んだ空間であってもその存在を認めているためである。むしろ主人たる時間が空間に含まれる出来事なる従者の数や性質や容姿など気にも留めていないと言った方がよいであろう。でもそれらは意識として多重に束ねられて空間に流れ到来し去っているだけである。

こうした出来事と時間と空間の概念はアンリ・ベルグソンの思想から導いたものである。というより勝手につまみ食いして勝手に記述したものである。ベルグソンの重要な思想は生命を意識のモデルによって考えること、つまり、生命を意識の流れの連続体として把握することである。保存されていた過去の意識が現在へと想起されて、現在が過去と混じって未来に向かい真の持続としてとして継続できること、いわば過去、現在、未来のあまたの出来事は記憶として埋もれながらも意識として甦り、今現在の意識を構成して持続し進行していることになる。即ち意識体を流れる時間をこの宙の永続性として作用させることができるのである。

今現在の時間の流れの中で仮であっても空間の内に生きる人間の意識を、なぜ谷崎潤一郎を論じるのに用いるのか。それは意識の持続こそが生命の系譜の連続性と結びついて、生命を躍動させるためである。いわゆるエランヴィタル(生命の躍動)が生じるのは持続があるためであり、意識の純粋持続こそが生命の躍動へと導くもののためである。こうした思想が谷崎の思想の根底に横たわっているからこそ、このベルグソン的な思想と重ね合わせることができる。谷崎が自らの思想の基盤として実現されているからこそ、ベルグソンの思想を援用して解読させずにはいられないとも言える。ただ、一つ言えるのは谷崎の示している思想はベルグソンの思想の一部である。それも初期の思想である。こうしたエランヴィタル(生命の躍動)を指し示すには道徳律と宗教が必要となる。無論、ベルグソンは宗教と言うある種の罠に陥って苦闘している。ただ、谷崎はこうした罠にはまった作品を発表していない。作品を読む限り楽観的であり静的でありおのが信念に些かの狂いもない強靭な意志を持っている稀有な作家なのである。

なお、出来事と時間や空間の概念は作家の表現の内において異なっていることに注意されたい。谷崎潤一郎こそがこれらの概念に密接に結びついて表現されている作家と思うがゆえに援用している。谷崎の小説こそが、純粋な意識の時間的な流れの内に出来事が生み出して、空間内に証しとしての痕跡を残し記述して、典型的な作品群を残しているのである。こうした谷崎とは正反対の記述を行っているのがヴァージア・ウルフである。残念ながら日本の作家にはいない。ウルフの小説では意識は瞬間に寸断され、空間の異なった方角へと瞬間的に移動して、またその意識も一つではない複数が存在して攪乱してくる。先に述べた多重に束ねられた意識とは谷崎よりもウルフにおいて明確に表現されている。ウルフでは時間も空間も寸断されて意識も解体して崩壊寸前である。もはや崩壊していると言っても過言でない。こうした狂おしい寸断された意識の表現を行っている作家は外国にも、そう多くはない。詩人には結構いる。なお、夏目漱石はこの意識そのものを小説群のテーマにしている。まさに漱石において時間は狂おしく流れて空間内を徘徊する。「行人」における一郎の意識が良い例である。猜疑する意識は寸断する時間に苛立ち、空間内にその猜疑の痕跡を残そうとする。一郎が幾らかでも救われるのは、もはや緩やかな時間の流れる遠くの離れた旅行先なる別の空間でしかない。森鴎外にてはもはや意識の流れを止めて小説を書いている。「渋江抽斎」を枯れている作品と述べたのは、まさに意識を捨てて時間と空間を過去へと遡って、その固定された過去の時間と空間の内に作家が居座っているためである。ただ、何度も言うが、どの作家とも作品の良し悪しを言っているのではない。作家の内にある意識の流れと時間と空間における出来事との関係の捕らえ方が異なっていると述べたいだけである。

『谷崎潤一郎の作品紹介と解読 第7回 日常の出来事』の「細雪」にて示した文章を再掲したい。「時間の連続性と出来事」の論点を旨くまとめているためである。『本書の最大の良い点は、最初にも触れたが日常は瞬間から構成されているのではなくて、隙間なく連続して時間軸上を流れている出来事の連鎖として示している点にある。これは先ほど述べた澱みのない緩やかに流れる文体がそうと錯覚させるのか、ヴァージニア・ウルフの日常が各瞬間の積み重ねから成り立っていると示しているのに比較し、本小説における日常は出来事を伴いながら鴨川の水の流れのように緩やかに連続性を保っている。それは、現在ばかりではない、過去からも文化の継承があるためか悠然と繋がっていて時間が隙間なく連続しているのである。更に意識も日常的な疑念と思いやりなどを丹念に描いていて連続している。こうしてみると、「痴人の愛」なる小説にある種の冗長さを感じていたが、その原因が分かったのである。それは「痴人の愛」が妙に偏在した意識のみを描いて、その意識を正当化しようと長々と書いているためである。従って、「痴人の愛」よりも「細雪」の方が作品としては、断然に成功している。こうした谷崎の意識の流れは「吉野葛」の短編に代表的に表わされている。現在に集中して若い田舎娘を嫁に娶ると言う以上に、古より連綿と繋がる日常生活への愛おしさの意識が、時空間を引き連れてこの現在に導き出されている。無論、この意識は淡々と綴っている文章そのものが生み出していると言える。現在を描写した「蓼食う虫」や「猫と庄造と二人の女」なる作品の延長線上にありながら、作者を作品の背後に隠して、日常生活の細やかな出来事の描写を冷静にかつより客観的に行うことで成り立っている。この愛おしさの意識とは、日常生活を綴る作者の隠されて細やかに見守る暖かい視線である。従って表立って表れることがない、このためにこそ、質的により高い位置を確保していると言えるのである』

ただ、この意識が先に示した出来事と時間や空間の概念の元に作動しているなら、具体的例をあげて説明しなければならないかもしれない。ただ、この記述は省きたい。例を取り上げるのが難しいのではなくて、谷崎の作品群を並べると明確に記述されている。例えば「吉野葛」や「春琴抄」において「細雪」においても実現されている。「吉野葛」では初音の鼓や甘露のような甘みを持つ柔らかい「ずくし」なる熟れた柿の実、これらは時間がどの空間を伝い流れてきたか自明である。「春琴抄」においてもバチや琴三弦に盲目、「細雪」では船場文化に氾濫する川に下痢などがある。作品を通じて到来する多くの出来事が時間となってどの空間にもそれぞれが手を振って流れている。またそれらはきっと重ね合わせることもできる。谷崎のゆったりとした長目の文章や歴史を題材にした小説とが時間と出来事に係わっていることは確かなのである。

2) 永続する時間と空間
時間と空間がなぜ永続するのか。それは先ほど述べた谷崎の長めの文章と歴史作品との関係の他に生命に対する肯定がある。これらのことを説明したい。谷崎の文章の特質はゆったりとした水の流れるような澱みのない文体である。この文体を読むと澱みなく意識が流れて谷崎作品を徘徊する。そして平安朝の「源氏物語」や「少将滋幹の母」における藤原時平から「吉野葛」における源義経に静御前が繋がり、「盲目物語」におけるお市の方や「聞書抄(第二盲目物語)」における石田三成の娘の戦国時代を経て、「お艶殺し」の江戸時代や時代がかった「春琴抄」における春琴へと繋がっている。そして昭和時代に至ることができる。谷崎の文体は試行し変遷している、また各小説にて変えているようにも思われるが、こうした文体論は行わない。文体論は結構成されているだろうし、またこの文体を詳細に検討することは相当の時間を必要とするためである。

要は谷崎の作品が平安朝から下って戦後に至るまで各時代を題材として記述している、そのことが日本の歴史的な時間を繋がせて時間を連続させている。そして出来事を生み出させる空間域を広げて、この空間に存在する人間があやなす出来事を持続させているのである。持続とは意識の流れから生命の連続性とともに生命の躍動に繋がるものである。人間なる生き物を肯定することによって、まさしく谷崎は繰り返すがベルグソンのエランヴィタルなる生命の躍動なる思想を根底に持っている。人間の肯定は谷崎の基本命題でもある。谷崎の肉体賛美やマゾヒズムは例え擬態であっても人間のエロシチズムを肯定することによって、人間存在の持続する連続性へと繋がっている。人間は未来において決して審判を受けるものではない、絶え間なく創造するものである。そして生命を躍動させることができる。こうした思想を根底に持っているのが「台所太平記」である。ここに『谷崎潤一郎の作品紹介と解読 題7回 描かれた作品世界(日常における出来事)』で示した「台所太平記」に関する記述の主要部分を以下に引用したい。

『「台所太平記」もとても良い作品である。谷崎家に仕えていた女中の話である。無論、谷崎は女中なる呼び名を嫌っていて、いろいろ工夫しているようである。本当の名前も置き換えて呼ぶなどして気を使っている。主人の千倉磊吉の好色気味な性格は表立って現れ出ることがない。女中たちの引き起こす出来事が主に綴られている。この出来事が人間の深層心理に届いていて、それに対応する磊吉や妻の賛子の溢れる人情味が、人間を肯定して未来への幸福な旅立ちを約束している。戦中の悲惨さや戦後の混乱期において、主人夫婦の女中に接する態度は慈愛に溢れている。どうして、ここまで対等とも言える関係を維持できたかは分からない。やはり谷崎の人間に対しての肯定感が浮き彫りにされているためであろう。他の作品においても谷崎が否定的に描いた人物は若干名を除いて記憶にない。無論、文壇仲間では激しい罵り合いもあったようであるが、作品においては「痴人の愛」のナオミをめぐって生じた争いぐらいである。磊吉は女中たちの子の名付け親になったり、妊娠時の「帯祝い」を行ったり、こうして晩年になったある日、昔の女中さんたちなどにも来てもらって喜寿のお祝いの宴を開くのである。健康を祝して万歳をあげる。最後に本書について再度言うが、谷崎のゆったりとした文章が、女中なる女人が好きな磊吉と人間味溢れる女中の小話を丹念に描いて、傑作とも言えるのである。これは夏目漱石の「坊ちゃん」と同等に値打ちがある』

以上、一部を引用したが、そう、まさしく女中たちは実際に戦前や戦中に戦後においても谷崎家において活躍している。女中たちを通じて躍動している生命が描かれている。そしてこの躍動する生命は未来においても持続する。なぜなら彼女たちの婚姻が子孫を育み未来に向けて命を引き継いでいるためである。無論、小説においても時間と空間内に持続する生命をおびただしく描いていることは、先に示した谷崎の小説群から明らかである。このように谷崎の小説群は過去から未来に向けて永続する時間と空間内にて持続する生命、その生命が躍動することを自明のこととして記述している。この生命観は「少将滋幹の母」に記されている屍を愛でる不浄観にて否定されているわけではない。不浄観とは生命とは輪廻すること、即ち生死を重ねて迷いの世界に生き生まれて死すことを示すが、むしろ藤原国経の奪い取られた美しい妻への愛着を示しているといえよう。この命への愛着は未来永劫に続くものなのである。さらに不浄観はジョルジュ・バタイユの「エロシチズム」に記述されているような個体の非連続性を指し示しているが、谷崎の思想はバタイユの非連続性を超えた肉体の連続性を確信している。「少将滋幹の母」で滋幹は山吹の茂る小屋で母に会えたではないか。母恋しさは個体の非連続性を超えた肉体の未来に向けての永続性を谷崎は示しているのである。

こうした谷崎の生命への肯定感は読んでいる者たちの命を愛でて育む優しく暖かさに満ちた小説群と言える。即ち、谷崎が求めた母なる慈愛、この母なる慈愛に満ちた作品群は生命体が時間と空間を繋いで、系譜し連続していくことを言い表しているとも言えるのである。

3) 三島由紀夫の谷崎論
フリー百科事典Wikipediaによる三島由紀夫による谷崎論では『谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている。三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて岸田国士が戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めたのとは対極の意味合いで、「結局別の形で自分の文学を歪められた」作家であると論じている』と書かれている。

つまり、超然としていて社会批評をしない谷崎を本然の在り方でないとし、結局自らの望みとは別の形に自分の文学を歪められた作家と述べている。この論旨は谷崎の本質を捕らえ損なっている。無論、時局に対して谷崎も主張したいに違いない。でも、主張しないことこそが谷崎の本然の在り方である。マゾヒズムが擬態とはいえ、女の足に背中を踏み付けられるのを好む男が声高に時局に対して主張するだろうか。芸術論ならば口角泡を飛ばして論争するだろうが、擬態を超えて、むしろ時代を超えて谷崎は生きている生命を見詰めている。永続する時間と空間の内に永らえようとする人間の生命を作品群に描いているのである。これこそが谷崎の主張であって、それ以上に反論することがない。その時代の風景とは一時の画のようなものである。時局とは移ろい行くものであり、変わるものである。人間は持続して生命を保つことができる。この時局を声高に批判したとしても時が流れない限り時局は変わらないと、谷崎ははっきりと認識していたのである。「潤一郎源氏物語」が文章の変更を求められ、また「細雪」が発表停止に追い込まれても谷崎は動じることがなくて、確かな未来が確実に来ることを知っていたのである。

ただ『持ち前のマゾヒストの自信を以て・・谷崎の文学変遷を論じ、谷崎がニヒリズムに陥ることなく、俗世への怒りや無力感にとらわれずに身を処して「おのれを救った作家」だとしている』と三島由紀夫が言うのは幾分正しい。即ち、マゾヒズムの擬態が谷崎を谷崎たらしめて、自らの生きるさまを御することができたためである。人間は持続して生命を保つことができるという谷崎の根幹思想こそがもたらした結果でもある。救ったのではなくて自らの自然体でいることこそが、谷崎をニヒリズムに陥らせなかった。ここではニヒリズムとは縁遠い谷崎の主体性の強さが際立っていることを強調したい。谷崎論は他の多数の視点からも結構論じられているようであるが、このくらいで切り上げたい。なぜなら、三島由紀夫などの谷崎論の詳細を一切読んでいないし、読んでいてもいちいち反論する必要はなくて、谷崎潤一郎なる私の像を示しておけばそれで良いはずである。三島由紀夫は「豊穣の海」の最後の場面にて、確か本田に記憶のない世界に思いを馳せさせるが、これは連続した時間を遮断させることである、もしくは幻覚を見ていたことになる。これに対して、谷崎純一郎は確実に現実を直視していたのである。もしくは現実の内のどこかの片隅で静かに楽し気に暮らしていたのである。時間の遮断とは死そのもののであり、幻覚とはこの現実の否定であり、三島由紀夫は谷崎の気質とはまったく異なった別の生命の躍動を自らに約束していたのである。

4) 芥川龍之介との論争
芥川との論争だけは記しておきたい。谷崎と芥川が「小説の筋の芸術性」をめぐる論争を行っていて、フリー百科事典によると『この芥川対谷崎論争のそもそもの発端は、1927年(昭和2年)2月に催された『新潮』座談会における芥川の発言である。この座談会で、芥川は谷崎の作品「日本に於けるクリップン事件」その他を批評して「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」、「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」などの発言をする。するとこれを読んだ谷崎が反論、当時『改造』誌上に連載していた「饒舌録」の第二回(3月号)に「筋の面白さを除外するのは、小説という形式がもつ特権を捨ててしまふことである」と斬り返した。これを受け、芥川は同じ『改造』4月号に(同誌の記者の薦めもあったと思われる)「文芸的な、余りに文芸的な——併せて谷崎潤一郎君に答ふ」の題で谷崎への再反論を掲げるとともに、自身の文学・芸術論を展開した』らしい。結局は芥川の自殺で論争は終る。

芥川龍之介著「文芸的な、余りに文芸的な」を読むと、「話らしい話のない小説」で始まっている。こういう小説も存在し得ると芥川は述べている。また、谷崎との論争に対する回答を行っている。日本の小説に欠けているのは入り組んだ筋を組み立てる才能であるとの谷崎の指摘に対して、「構成する力」上で日本人は志那人より劣っていないと芥川は言う。そして谷崎に詩的精神を強調する。谷崎の文章は優れていて「刺青」では詩人だったが「愛すればこそ」の谷崎は詩人には遠くて汝の道に帰れと書いている。そこで谷崎の「では君の詩的精神とは何を指すのか?」の問いに、詩的精神とは最も広い意味の叙事詩であると返事をしたと書いている。「そういうものならば何にでもあるじゃないか?」と谷崎が言うのに対して芥川は何にもあることは否定していないと書いている。ただ、どういう思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火を通って来なければならぬとも芥川は強調している。平田隆の「解説」によると芥川の反論は弱々しいものであったらしい。もはや論争はなりたっていない。

ただ、平田隆の「解説」によると芥川は荻原朔太郎とも交流があって、芥川は朔太郎に「君と僕とは、文壇でいちばん似た二人の詩人だ」と語りかけたらしい。でも朔太郎は「詩が、芥川君の芸術にあるとは思われない」と公言していたとのこと。また「芥川龍之介の死」という追悼文で、朔太郎は「芥川龍之介は詩人であるか否かという問いを抱え続けていたと述べているのである。芥川はきっと文芸の諸形式に懐疑して箴言(アフォリズム)形式を生み出したと推測される。でも、この箴言形式は朔太郎の詩とは似ても似ていない、いわゆるどうしても散文形式になる。芥川にとっては自ら望んでいた詩形式でさえ懐疑の対象になっていたのである。最後に平田隆は谷崎にも朔太郎にも否定される地点に佇立していた芥川龍之介の誠実は、痛ましいほどのものであると書いている。そして芥川の死によって谷崎にも朔太郎にもその地点の意味が認識し直された時、いっそう痛ましいものになったと付け加えている。つまり芥川龍之介は谷崎ほど筋に立脚した小説は書けなかったし、朔太郎ほどポエムの文章は書けずに、ただ思うままに短文を描き続けるしかなかったのである。箴言(アフォリズム)形式はそれほど良いとは思われないが、ニーチェなどは好んでいても、ある種の書きなぐりに似ている。でも、芥川の死の直前の「歯車」などの散文は心に染みてくる。結局芥川は知性が優れて感覚が鋭敏であったために、どちらも自らの物とすることができなかったのである。こうした経緯の詳細は平田隆の「解説」などを読むと良い。

さて、それほど仲の悪くなかった谷崎と芥川の二人がどうして論争を行ったのか。なぜ「小説の筋」が問題となったのか、私には分からない。ただ、二人の文章と感性はあまりにも対極する位置にある。芥川の文章は「地獄変」や「偸盗」を読むと、研ぎ澄まされた感性のためか、少しぎすぎすしていて滑らかさを欠いており、生きる意味そのものを疑って否定する意志が働いていると思われる。また、谷崎が「筋の面白さ」にこだわっていたとは当然である。本来的に谷崎は「小説の筋」を大いに活用して面白い筋を見出し続けて小説を書いているのである。

いずれにせよ、小説は読者にとって読んで楽しければ良いのである。では、作者は何を根拠に小説を書くのか。たぶん自己を表現する感性に基づいていて、その感性を、筋を含めたある題材にて展開することではないだろうか。ある種の自己表現の衝動とも欲望とも言えるのである。芸術的な価値は後からついて来るものであろう。基本的に芸術的価値は作者自身の自己を追求して表現した作品の内に属している。無論、芸術性を追求して書いても構わない。ただ、そのために無理を重ねれば、損なわれる心や体や作品がある。そして、その追求する芸術とは何なんだろうという疑問が湧いてくる。きっとこの追求する芸術とは心を癒し満たす糧ではなく、むしろ割れる風船玉のように意識が膨らみ続けて心を荒み干乾びさせる、縁取りがなくて膨張し過ぎて破裂するようなものである。とにかく、芸術性そのものを目的としては、できる限り追求しない方が良いはずである。

それにしても芥川が海外の詩人の作品を読み、筋を排した散文詩なるものを追求して書いていれば面白い作品も出来上がったと思われる。結局彼は「今昔物語」などの筋を借用して作品を描く枠を、大きく乗り越えて創作できなかったのである。ただ、「歯車」に描かれている幻視・幻覚を膨らませてアントナン・アルトーやヴァン・ゴッホやT・ツァラに匹敵できる作品を描いていたならば、どんな風になっていただろうと夜遅く胸膨らませて想像する時がある。知性と感覚の鋭敏さに抑圧されて芥川の狂気と幻覚の爆発が十分に解放されなかったのだろうか。

それにしても、谷崎は思うままに書いて貴重な作品群をたくさん残してくれた。最後に、再度言いたい。谷崎の作品群の背後に隠れている日常における出来事の連鎖の描写こそが、谷崎を通俗な作家から質の高い作家へと押し上げて、この世界の時空間上に永久にあり続けて高質な作品群を残したのである。大(おお)谷崎と言われるのももっともなことである。時間があれば、もう一度「春琴抄」、「少将滋幹の母」、「細雪」を読みたいものである。これにて『谷崎純一郎 作品の紹介と解読』のシリーズを終えたい。


詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。