ファニーヒル

題:ジョン・クレランド著 中野好之訳「ファニー・ヒル 一娼婦の手記」を読んで

この本は好色本である。それ以外の何物でもない。何かしらの、サド的な超自我による絶対否定の観念、マゾッホ的な契約と宙吊りの観念、それに「O嬢の物語」の人間のモノ化などの哲学的観念を含んでいない。というより、性を通じて生命を謳歌する絶対肯定の観念があるとも言える。底の知れない楽観主義でもある。全体で三百頁ほどあるが、百頁ほど読むとほぼ理解できたので、後は流し読みしている。

従ってあらすじは裏表紙の文章を引用したい。『欺かれて娼婦に身を落とし、さまざまな男性遍歴を経る少女ファニーの数奇な運命・・。十八世紀イギリスが生み落とした好色文学の名作を、無削除逐語的名訳で贈る』いみじくも、やはり好色文学と言っている。付け加えれば、ファニーは娼家で見染めた男と逃げ出す。でも、男は遠地に追い出されて、ファニーは若さと美しさ故にいろんな男の愛妾になるなどするが、結局最後にはこの最初の逃げ出した男チャールズが舞い戻って来て会うことができる。もはや夫婦になって暮らしているのかもしれない。

とにかく精緻な行為の描写は卓越している。その場面が具体的に浮かんでくる。ファニーが初め心配するが、次第に没頭し歓喜する心持ちが分かるほど上手に書いている。そして、行為の描写が過半である。これは「悪徳の栄え」や「毛皮を着たヴィーナス」にはなかったことである。「悪徳の栄え」では激烈で過激な描写があるが、長い政治や哲学の話も含んでいて、ある種の退屈さを含んでいる。「毛皮を着たヴィーナス」では女を見出して愛して契約し、鞭打たれることによって現実の内に混濁していく心理を描いている。この心理の移り行く様が上手く書かれている。「O嬢の物語」では行為における肉体の部位の絡まり方が長く書かれていて、どう絡まっているか良く分からなくて退屈である。でも、全体として奴隷として飼育され次第にモノ化しても、少なからず人間の心理を失わずにいたが、ステファン卿に捨てられることでO嬢は死を決意する。最後に絶対的なモノ化を希望する。本書はこうした大枠の概念がなくて、享楽的というよりも善的である。生命に対して肯定的かつ楽観的であることこそが、本書の概念と言える。

当然、本書は禁書である。「悪徳の栄え」も禁書であり、裁判沙汰にもなっている。では、フローベールの「ボバリー婦人」がなぜ裁判沙汰になっているのか。行為の具体的な描写など殆どない。たぶん、日常の退屈さに飢えが生じて、不倫へと走る心理が見事に書かれていたために違いない。この心理が現実の主婦たちの行動となることを、当時は恐れていたのかもしれない。なお、本書の作者はこの一冊だけが有名で他の作品はあまり売れなかったとのこと。他の作品も同様に精緻な行為の描写を行っていれば、そこそこ売れたのだろうと思われるが良く分からない。こうした好色文学はたくさんの作品を生み出しながら傑作と呼ばれるものはきっと少ないだろう。

日本での西鶴の好色ものとは人情本とも言える。男と女の悲劇的な恋愛と、恋愛の経験的積み重ねが喜怒哀楽を生んでいるとも言える。「四畳半襖の下張り」は殆ど忘れたがしっとりとした情緒を含んでいて良かったと思う。「家畜人ヤプー」や「ドグラマグラ」などは猟奇本と言える。それにしても「金瓶梅」や「千夜一夜物語」に「デカメロン」などは好色本というより、ある種、世界観や人生観や関与してくることもある。確か、長編の「金瓶梅」を読み終わった時には、なんだか楽しくて何日も浮かれていることができた。自分が西門慶になったような気がして幾日か楽しい気分で過ごすことができたのである。惜しいことに「紅楼夢」は読んでいない。こうしてみると読書の楽しみの一つに、特に小説では自らを作品の内に置いて、その世界内に羽を伸ばさせることにあるのだろう。そして、例え悲惨な切迫した心理を描いていようとも、文章に描かれた境地を体験して自らを治癒できる。ただ、好色本とは好色性のみを満足させる本であるのだろう。無論、根底には生と性の肯定にある。この肯定こそが大切な事であるとも言える。

以上

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読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。