神死時間

題:エマニュエル・レヴィナス著 合田正人訳「神・死・時間」を読んで

エマニュエル・レヴィナスの著作物は読むと、その内容は雰囲気として分かる、大雑把には分かる、でも細かな点は良く分からない。こうした状況が続いているが、レヴィナスの著作物を読むのは、良く分からなくとも詩的で難解な文章が好きなのと、存在と存在に関わる倫理が問題になっているためである。本書も大雑把に理解できても、良く分からない点も多い。その原因として、本書はレヴィナスの最後に行った講義の記録なのである。それも二つの講義を録音テープによってまとめたもので、レヴィナス自身が書いたものではない。本書の「前置き」を書いているジャク・ロランによって、まず「死と時間」の講義が1991年に発表され、次に並行して行われていた講義「神と存在―神―学」が加わって本書が1993年に出版されている。

更に、本書がレヴィナスには珍しくヘーゲルやハイデガーにカントなどの読解を通じて論じているために理解が難しい。また、レヴィナスの使用する言葉「隔時性」や「語ること」と「語られたこと」、「同」に「他」、「証し」などが簡単な説明だけで、もしくは説明なしに用いられていることが理解を困難にしている。また、新しい用語「徹宵の留意」や「不眠」などが使われている。なお、「存在の彼方」へを読むと主要な語の定義が載っているが、その定義を理解するのも結構面倒である。いずれにせよ本書の訳者である合田正人などのレヴィナス論を読むのが理解に早道であるかもしれない。でも、その前にレヴィナス自身の著作物をいくらかでも多めに読んでおきたい。なお、それほど遠くない昔に、簡単ではあるが「存在の彼方へ」、「全体主義と無限」、「実存から実存者へ」の感想文は書いたことがある。振り返ると、レヴィナス自身の文章が理解を困難にしている、そうした文章上の特徴があることは確かである。いっそのこと細部にこだわらず俯瞰して読むのが得策とも思われる。

本書の内容をごく簡単に紹介したい。本書も他人の顔を通して〈他者〉の問いを提起して中核をなしている。また、ハイデガーなどの哲学者の読解を通じて「死と時間」と「神」を論じていることは改めて述べておきたい。また、「死と時間」では24回の講義、「神と存在―神―学」は23回の講義が行われていて、それぞれに題名がある。「死と時間」の初めに、レヴィナスはまず本講義を「時間の持続」に関することと断っている。時間というものは流れや流動ではなく測定できるものではない、時間それ自体の様相があると述べている。そして、自らの死は経験することができない。死は応答がないことであり、存在様相(顔)が虚無化することである。即ち「もはや存在しないこと」への移行として死は現れるが、同時に未知なものへ帰路なき出発でもある。他者の死を通じて私と死の関係は織り成され、死が私たちの生を襲い、私たちの生きている時間の持続に衝撃をもたらす。この時間に侵入してくる死は受動的な触発をもたらして、この時間の様態は経験や虚無には還元不能なものでなのである。

こうして死の意味とは他者の死において私たちが係わるものから到来する。そして、時間の構造は志向的なものではなく、経験の未来把持や過去把持からなるのでもないとレヴィナスは主張する。この時間を受動的な観点から述べれば忍耐となる。なぜなら死は、時間が忍耐や期待を、志向性のない期待を引き出してくる地点をなしているためである。そして、レヴィナスは余談として、時間の持続は、無限との、内包不能なものとの、〈異なるもの〉との関係である、〈異なるもの〉との関係で《同のなかの他》の表現における「のなかの」が隔時性を表しているが、時間とは〈同〉のなかの〈他〉であると共に、〈同〉とは共存不能な〈他〉、共時的なものたりえない〈他〉でもある。即ち、時間は〈他〉ゆえの〈同〉の動揺であるとも述べている。なお、隔時性とは記憶可能な過去の起源などとの共時性をとれない時間の隔たりを意味している。

こうしたレヴィナスの時間の存在に与える関係は『時間は存在の制限ではなく、存在と無限との関係です。死とは虚無化ではなく、無限との関係ないし時間が生起するために必要な問いなのです』と言い表している。こうしてみると、先に示した『時間の持続は、無限との、内包不能なものとの、〈異なるもの〉との関係』と言い切っている点にレヴィナスの時間に関する概念の基盤がある。こうして、レヴィナスは各哲学者を論評しながら「死と時間」を細かに論じていくのである。なお、レヴィナスは『時間とは一切の潜勢態が現勢化されるような成就の、完璧な規定の時間です』とも『時間とは純粋な希望なのです』と言っていることに注意されたい。〈異なるもの〉との関係においてまさしく、時間とは潜在態が現実化される希望であることが彼の真意であるに違いない。

「神と存在―神―学」での内容を簡単に述べる。存在の意味の究極の源泉とは、存在とはすなわち存在と虚無のことである。存在と虚無とは連動している。そして神とは他なるものの存在を意味している。この意味していることを思考すると、神に倣って存在の炸裂や転覆を、存在することからの脱出をすることができる。他なるものは〈同〉には還元不能ではあるが、ある種の関係(倫理)において、この他なるものないし彼方を思考できる。この倫理は存在―神―学より古い何かであり、この倫理が存在―神―学を解明できる。神と存在―神―学を対立させて新たな観念を認め、倫理的な関係こそが探求のための出発点になるとレヴィナスは述べている。こうして存在と意味が論じられる。言語がなければ意味はなく、この意味としての意味は存在の現出だと言い切っている。でも、意味の論理的陳述は語り直しを求めていて、意味と現れることとの融合がある。こうしてレヴィナスは〈語ること〉や〈語られたこと〉、主体―客体の関係、倫理的主体性、無―起源としての主体性などを通じて、自我、善意、自由と責任、証し、不眠などについて論じている。

現在として現前するものに対する超過が〈無限者〉の生であり、〈同〉に対する〈他〉の現前なき、〈同〉への〈他〉の内属は、関係をなす諸項間の還元不能な不―一致ゆえに時間性である。無限者の栄光は、ありうべき逃亡の可能性を奪われて狩り出された、そのような主体における無起源、無秩序であると言う。分かりにくいが、逃げ場を失いひび割れ核を失った状況ながら、主体が隣人に対する責任を負っていることこそが無限者の栄光なのである。こうして、神は他者にとって他のなるもの、他者とは別の仕方で他のなるもの、他者の他者性に、隣人への倫理的な収斂に先立つような他者性を有した他者とレヴィナスは言い切っている。どんな他者とも異なり、不在をなすほど超越的で、超越が栄光へと高まり、真なる超越でもあるのである。レヴィナスがこうした言い方をするのは神の声を聞くことに、その存在の固有性を思考することに理解を求めていたのではないだろうか。いずれにせよ不明な部分もあり尚も理解を深める必要がある。ただ、言葉を綴り簡単ながらも感想文を書くことによって、或る程度レヴィナスの述べている思想の太い幹やその周りの雰囲気は伝わってくる。

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。