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短編小説その18「砥石と刃物」

      砥石と刃物

砥石とは刃物を研ぐ石のことである。光沢を持って鋭利に美しく刃物を仕上げなければならない。研ぎ澄まされた感性で念入りに鋭敏さと情熱を持って一心不乱に作業者は研磨を行わなければならない。根気のいる仕事である。夜の闇に紛れて男は念入りに刃先を研いでいる。墓場の近くである。月の明かりがわずかに照らしている。刃物の仕上がり具合を見極めるにはおぼろな明かりに敏感に反応させるのが良くて、かつ誰の邪魔が入ってもならない。こうして選択したはずの墓場の近くの路上で、男は額に汗を浮かべながら一心不乱に研いでいる。刃先がおぼろな明かりに妖しく光っている。この妖しさに気付いて砥石は満足している。自らの役割が果たしている効果に絶大な信頼を置いているのである。浴びた水を石の肌に浮かべながら接してくる刃先の心地良い感触に砥石は酔っている。規則正しく擦られる表面の、石の肌に流れる水の粘質的な快適さは、正に成し遂げられる刃先から与えられる報奨である。妖しい光を増幅する度に心地良さも増幅する。男は時々手に持って刃物の仕上がり具合を確認する。夜の闇に透過する月明かりに照らし出されて刃物はわずかに色を染めてぼんやりと光っている。まだ鋭利に発光はしていずとも、もうそれなりの完成度を持った仕上がり具合のはずである。ただ、男は満足していないのか、静かにまた作業に没頭する。砥石はまだ続けられるこの作業がいつ終わるのか知らない。男の満足度によってのみ定められるのか、それならばそれまでの時を心地よさに酔いながら過ごせば良いだけである。風は吹いてはいない、少しばかり熱のこもった空気が澱んでいる夜である。きっと夜明けまで疲労困憊しても作業は続けられて男が満足するまで終わりは訪れないだろう。


この作業の傍に立って眺めている墓石が羨ましそうである。何の目的や効果を持たずにただ立っている。この場所に在り続けることだけを墓石は目的としている、汚れて劣化し欠損を抱えて風化しても慰めてくれる者や磨き清めてくれる者などいない。埋められた骨は疾うに地の底へと分解して消え去っている。稀に彼岸参りの時節などに礼装した訪問者が日差しを浴びて行き交うのを眺めているだけである。これらの訪問者もめっきり減っていて、綺麗な花などを飾られ、体を磨き上げられる墓石も少なくなっている。こうして墓石は立ったまま定まった方角を視野の内に眺めている。どうしても砥石が羨ましくなるのは致し方ないであろう。それでも墓石は役目が異なると納得して、極度の願望に取り付かれることはない。少し悩ましげに静かにただ立っている。そうした墓石の心持など砥石は知ることなどない。その存在さえ把握していないだろう。自らの置かれた位置から外側の世界へと視線を向けることなどない。この墓場のすぐ内に在りながら、ひっそりと自らの肌の表面が擦られる心地よい感覚に満足している。ただ男が成せるままに自らを委ねている。月が雲に隠れて暗い夜が深まってくる。それにも拘らず磨かれる刃物の発する光は色を深めて増殖する。男の成せる作業がより鮮明に効果を発揮している。握った刃物を暗い夜の闇に振りかざすと一条の閃光が発せられる。反射するのではない常に妖しく自らが発光するのである。男はふっと溜め息をつく、それは成就した満足感であるのか、まだ思い通りにいかない不完全さによる溜め息かは、砥石には分からない。


この夜の墓場に一人の女が歩いている。暗くて黒い影となってよく分からないけれども、女であることは確かである。姿形からの判断ではない、化粧の匂いから分かる。無論男には女がやって来ると分かっている。静かに近づいて来る女の目的は何であるのか。この暗い夜にたった一人で墓場にやって来る女の目的など知ることはできない。ただ、男を誘いに来たのかもしれない、狐の化身か蛇性の淫を持つ女なのかもしれない。男は用心深くまだ研いでいる途中の刃物を握っている。砥石には状況が良く飲み込めない。もし研磨作業が終了したならば洗い清めて所定の収納箱に収めて欲しい。静かに眠りたい。でも、どうしても他者がいるからには不吉な予感がする。刃物の放つ光の色が増殖して一条の線の幅を広げて、この墓場を裂くように伸びて行く先は闇の向こう側である。切り開きたいのである、刃物は男の意志に従ってではなく、自らの能力を、この世界を裂き開いて切れ味を試したい。こうした思いを持っているのか、砥石はこの状況をじっと見守っている。今までにない緊迫感がある。自らの成果が刃物と言う媒介を通じて目の前にて確かめられなければならない。女は一切構わずに静かに近づいて来る。淫な匂いが刺激する、この空間に光の色と交錯する邪淫の匂いが取り巻いている。男は近づいて来た女の顔を見る。乏しい光の内に現れた女の顔は狐でも蛇でもない、美しい女である。正体を隠して騙されているとしても、女の美しさは男を油断させる。互いに視線を交えても一言も発しない。熱情を秘めて恋する男女のように見詰めている。ただ、男の握る刃物の発する光の筋が揺れている。それは刃物の動揺を表しているのか、美しい女故に切り裂きたい欲望を押さえつけているのか、この世界は与り知らぬ静けさで満ちている。


女は男の手にそっと触れてくる、驚くのは男ではなくて刃物である。刃物の魂胆を見抜いたためか自らの魂胆もあるのか、男は刃物を握る手を退かせる。女が許すはずはなくて増々手を絡ませてくる。刃物を握った手を後ろに回して逃げるには限界がある。もはや手の移動はままならずに摺り足にて男は体を後退させる。淫なる刺激臭が男の感覚を捕えている。それは別な欲望を呼び起こす。男は後退などしたくなくて、刃物を投げ捨ててでも女の手を握り締めていたい。狐や蛇の邪淫であっても構わない。ただ、握っている刃物の言い分も実現させてやらなければならない。いずれにせよ後退するのではない、どちらにせよ女を捕えて密着しなければならない。男は自らの行動の論理と情動を分かちがたく結びつけて分裂している。少しずつ乗っ取られる心と体の言い分は、刃物の意志も含めて女の手をしっかりと握り締めている。そして女の目の奥を覗き込む。何を望んでいるのか知りたいわけではなくて、男は自らの意志と刃物の魂胆を実現させようとする。まさに握り締めた女の手を引き寄せてこの妖艶な体をどうするかである。淫猥な刺激臭が脳髄に刺さってくる。すると男が刺しているわけではないのに、刃物が女の体を刺して引き裂いている。苦痛に溜め息が漏れて女の目は宙に浮いている。自らに成されていることをきっちりと認識してなくても、女は苦痛に喘ぎながら少しずつ倒れ横たわっている。頬を紅く染めて淫猥に笑っているのだろうか、苦痛は笑いをもたらすのだろうか。きっと男の分裂した意志の馬鹿さ加減を嘲笑っているのであろう、どうあっても何が成されているか知らずとも、男の分裂した行為は女の体も分裂させている。


切り裂かれて破片となった女の体からは小さな蛇が夥しく蠢いている。男はそれらの子蛇の集合体を愛おしそうに抱いている。裂かれた体からは血が滴っている。刃物の鋭い刃先からも絶えず刃物自らが湧き出させるように粘性の液体を滴らせている。男はもう刃物を投げ捨てて狂ったように切り裂かれた女の体の部分集合を抱いて、雄叫びを上げている、悲しさや愛おしさや欲情する緊迫感からではない。どうしても刃物の主張に従ってしまった自らの弱さを嘆いている。と言って断片化した女の体を元に戻すことはできない。自らが握っていた刃物に無数の肉片がこびり付いているのを見て、男は悔しさに刃物を踏みつぶしている。でも頑強な刃物が壊れることはない。そこにそのまま転がって子蛇たちと戯れて遊んでいる、自らの意志を通してその満足すべき結果を得た褒美が子蛇たちであるのだろうか。そうとも言えずに刃物は更なる別の女なる獲物を望んでいる。暗い雲間から再び月明かりが差し込んでこの地上を照らしている。薄暗い明かりは刃物の放つ鋭い光に比べて、この地上の状況を遍く照らし出すことはない。薄ぼんやりと陰影のついたフイルムのように明晰さを欠いて、おぼろに浮かび上がらせている。。女の目玉が転がって男を見ている。非難すべく怒っているのでも馬鹿さ加減に嘲笑っているのではない、また埋葬するように懇願しているのでもない、死んだ魚の目のように焦点を欠いて白目がただ凝視している。男は断片化した女の肉片を子蛇とともに集める。刃物からも付着した肉片を奪い取る。拾い集めた女の断片化した体をこの地の土の中へと安らかに成仏するように埋める。もしや蛇であっても今まで邪淫を満喫していたとしても極楽浄土へと女は成仏できるであろう。


男は墓場をうろついて適当な場所を探すと、これまでの成り行きを見守っていた墓石が自らの体を傾けて容易に埋めるべき場所を提供する。守るべき供養体を墓石は自らの内に収めることができるのである。誰に感謝すべきであろうか、当然なこととして刃物である。死んだように転がっている刃物を墓石は憐み深く拝んでいる。どうにかしてやりたいと思う。でも何もできるはずがない。墓の内側に葬られた女は死んではいない、かまびすしいのである。叫んでいるのではない、子蛇となった肉片が蠢いて墓石内部を無暗に掻き回して、無心であった心に荒立つ波風を巻き起こさせている。困ったことだと思いながら、でもそのうちに土の中にて生き物は活力を削がれ死滅すると墓石は思っている。まさか子蛇が邪淫を好む女へと甦生するはずなどない。男はすべての作業を一段落させると墓石の脇に腰を落として休んでいる。何がどうなったのか、自らの作業は何だったのかと思い返している。するとまだ少なからず肉片をこびり付けて横たわっている刃物を見つける。光を失い鈍重に死んでいる刃物を再び研磨しなければならないという思いが突如として湧き上がる。自らの意志は刃物を鋭利に研ぐことであって成すべきことを忘れてはいけない。男は刃物を優しく抱き締める。まるで女を抱くように、刃物の意志が自らの意志に乗り移ろうとも嫌わずに刃物を甦生させなければならない。月も清らかに照らし出しているこの地にて、男は再び刃物を研ぎ始める。刃物を研いでいる砥石は、ぼんやりとした意識の中で自らの肌が愛おしく撫でられているのを知る。心地よさが全身に行き渡る、自らが本来の役割を取り戻して砥石は安堵している。刃先を鋭利に研いで妖しい光の色をこの地にこの夜空に発することができるように、心地よさに酔うだけではなくて自らの役割について刃物は再確認し果たそうとする。供養体の蠢きに困惑しながら墓石はこの研磨作業を見守っている。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。