首を吊った太陽に蛇や女_-_コピー

散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その18

   蕩ける蛇と女

 溶ける体が、柔らかく蕩けすぎたためにか、液状となって滴っている。雫となって雨のようにこの宙に降り注いでいる。むしろゆっくりと粒状に飛散していると言う方が正しいかもしれない。あまりにも女が蛇を愛しすぎたために、愛しさのあまりに蛇に体を絡ませてどこの部位であっても舐めすぎたためであろう。すると蕩けた蛇の粘液が粘性の糸を曳いて女の体を覆い始めて、しならせた首から下へと白く露わにされた女の肉がもはや粘液に包まれて、肌の肉の中へとゆったりと液質が浸透していき、蛇はもはや女の体と融合する、すると一つの蕩けた融体から粘液が液状の粒となった雫が滴っているのである。


 この小さな粒子から構成される粘液、その粒の一つ一つが命の子であるのかもしれない。密やかな儀式も行われたのだろうか、この宙において交合することなどどうでもよいはずであり、儀式など必要ないのであるが、滴る雫が粒子であるなら乾いた砂子というより、命の核を含んだ子の可能性が強くて、蛇女の熟成させた卵の粒と言うのが正しいかもしれない。つまり儀式とは蕩けてもう戻ることがないほどに密に合体する、蛇と女が低く呻いて細かな肉の小さな粒までもが融合し、化学反応を起こすほどに発熱し、魂や霊のようにぽっと光っている、新しい光の子を生み出すのように蕩けている、高揚とした液状の物質そのものを粒子として蠢めかせることなのである。


 この液状ながら粒子化した物質は因果とは無関係に単なる生命的な自律反応システムとして、より不可分に結合すると無慈悲に滴っているのである。卵の粒のような雫を滴らせる、新しい命を生み出す意志などなくとも、結局は女が蛇を愛しすぎたために、蛇を溶け込ませた蛇女が命の粒をこの宙の中に胞子のように、雫として卵の粒を漏れ出た水のように滴らせているのである。涙などではない、淫水でもなくて、あなたの吐き出した唾でもない。この新しい命の粒は生命体として成長していくはずである。未来に向けて蛇女になるように細胞が分裂して、この元の体の形を取り得るのだろうか。女や蛇に分化して育つのだろうか、いずれにせよ誰にも分らぬ未知の命である。


 蛇なる女は粘体となって水液を滴らせて、この宙の奥や底を抜けて浸透している。あたかも境界なる膜があるとするなら、その膜を浸透して進んでいくのである。光の子もしくは新しい受精卵として別の宙へと意志などないのに浸透圧を広げてはびこらせる。乙女のように薄いこの宙の膜はぼろぼろとなって破けている、多次元の切れ端が点在するように、食い千切られた旗のように境界なる膜は転がっている。悲しさなどないのに蛇女は残り滓のアメーバ状の粘体を溶かすように体をくねらせて、蛇でありかつ女のように声を出して喘ぎでいる、そしてどうしても液体として蕩けることを求めているために、滴ってしまう雫や粒がこの宙に浸透していくのである。


 たぶん失せてしまった境界は、閉じたループではなくて無限に開放されたこの宙の系統図である。蛇と女の粒から育つのは、利発な女の子でもぬるりとした肌を持つ蛇のような細長い紐でもなくて、誰もが知り得ぬものである。この生み出される命の染色体は色を染めずに埋め込まれてもいずに、白い砂子や黄色い声の紋が線となって刻まれているだけなのかもしれない。別の世界へと静かに浸透しながら命のループを行わずに、受け継いで系統もされないこの宙では、この宙でなくとも、蛇女も生まれずに傴僂男も生まれ出ない。どの命も水子なのかもしれないが、液状なって滴っている蛇女のその液質も残り少なくなって、滴る卵なる粒の数も減少しているのは確かである。つまり無限に解放されていても閉じていても、この宙では正統な生命が生み出される確率は低くて、たぶんあり得ずに、絡まりたい女と蛇だけがいる。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。