[最初から]ゾンビつかいの弟子 4章(前半)

(約13000字 / 読むのにかかる時間 : 約25分)

[最初から読み直しキャンペーン]
こちらは「ゾンビつかいの弟子」本連載ではありません。今後の投稿スケジュールはこちら


四章

1.

ビィが時間差で熱を出したので、結局2泊3日、ビイにとっては3泊4日の滞在になった。

その間、数田家の他の人間とは一度も顔を合わせなかった。
同じ敷地の奥側に『離れ』があって、そちらのほうが新しくて使いやすいらしい。両親と祖母はそちらに住んでいて、こちら『本宅』のことは兄弟に任せきり、干渉してこないそうだ。

「仲が悪いわけじゃないんだよ」とヨシオは言った。「ただ、こっちの家はこっちの家で、使ってないと腐るから。維持するのも楽じゃないぜ。ほんとは貸しに出したいんだけど」

僕にはまったく理解できない世界だった。

出発の朝、ヨシオは既にいなかった。早朝に職場から呼び出しが掛かって、既に出勤したとのことだった。

数田がミニバンで駅まで送ってくれた。

「スーちゃんは一緒に来るのかと思ってた」と、ビィが言った。「誘われればどこまでも付いてくる人じゃないの?」

「まあ、いずれM県には行くと思う」と数田は言った。

「来たらうちに寄って」と神白が言った。「住所教えとくから」

「僕のは教えないよ」僕は急いで言った。

「いや、どっちの家にも行かんよ。俺は他の用事で行くつもりだから」数田は冷たかった。

駅はほとんど他の民家に埋もれかけていた。言われなければ素通りしてしまうくらいの存在感で、改札脇のキオスクにシャッターが下りている。

「あのさ、ごめんね、迷惑をかけて……」
車を降りるとき、神白が言った。

「それは別にいいんだよ」と数田は言った。「頼ってもらえて、嬉しかった」

友達がいなさそうな人だ、と僕は思った。しかし彼の場合、友達を作れないというより、そもそも友達を必要としない人間に見えた。

全員が車を降りると、数田は助手席の窓を下ろして「伊東君、バイバイ」と言った。

「うん、もう会わないよね、さようなら」

「ショウコさんも、気を付けて」
数田は言いながら、すっと発進した。ミニバンは、ロータリーなど無い駅前の道路をあっという間に遠ざかり、角を曲がって消えた。

「あ、マジであいつ」神白は呆れた風に言った。「僕に挨拶はないのかよ。住所も受け取らないし」

「そりゃ、この状況で住所だけ知ってもね……」
ビィは改札の奥を見やって言った。

元は無人駅だったであろう、こんな寂れた駅にまで『関所法』の施行は行き渡っていた。これが中央集権か、と僕はちょっと感心してしまった。

改札のすぐ内側にのっぺりとした深緑色の壁が作られている。その中心には、人ひとりがやっと通れる穴が開いており、その輪郭は空港でよく見るような金属探知ゲートになっていた。

紺の制服を着た男が3人いて、ひとりは身分チェックをし、ひとりは金属探知機が反応した場合に手持ち式の探知機で再検査、あとひとりが記録を取る。
以前、他の駅で見た光景と同じだ。

しかし、この駅の使用頻度が元から非常に低いこともあって、この関所には物々しさよりも場違いな感じがあった。
駅どころか、この辺り一帯に僕たち以外の人影はなく、3人の係員は「退屈を紛らわすものがやっと訪れた」という顔で僕たちを見ていた。

僕たちは3人とも、土産物屋の女経由で発行された『今野研究室』の通行証を使い、ほぼ素通りで改札に入ることができた。
これが無かった頃、どこの関所へ行っても質問責めを受けた末に追い返されたことを思うと、不思議な気分だった。

関所法のせいなのか、元からそうなのか、列車はガラ空きでほぼ貸切状態だった。車両は3つしか無く、後ろの車両には僕たちだけ、中央の車両は無人、前のほうにはスーツの男性と女性がひとりずつ。

列車は何度も小さな駅に止まった。どこの駅からも、誰も乗ってこない。景色はずっと、代わり映えのない田んぼと民家、雑木林の茂る小山、ずっと向こうに見える湖。

これでやっと帰れる、という実感は無かった。だいたい、問題は何も解決していない。相変わらず母の行方は分からず、父とも連絡が取れない。
しかし、少なくとも神白は帰るべき実家があるのだし、そもそもこんなことになったのも完全に僕の巻き添えだ。

「あのさ、今後の予定なんだけど」と、僕は言った。

神白はこちらを見た。

「僕たちはいったん僕の家に戻って、準備をしたら、中国へ行こうと思う」

「中国?」神白はさすがに驚いた顔で聞き返した。「それは山口県あたりのことじゃないよね?」

「うん、中国地方じゃなくて、人民共和国のほうね」

「なんでまた…」

「ビィが、ハッカソンの初期の立案者と連絡が取れて。立案者は結構前にあそこを離れてて、今は中国で、ゾンビのセキュリティを突破するプロジェクトをやってるらしい」

「アレには司令塔があるはずだから」と、ビィは口を挟んだ。「衛星通信で遠隔から一括操作できると私たちは踏んでる。もしこれが成功すれば、いま日本中で動いてるゾンビを一網打尽にできるはずなんだよ」

「それは、すごいな」神白はよく分かっていないような顔で言った。

「とにかく安定したネット環境が必要だし、中国はいまや技術大国だから」ビィは言った。「それに、単純にインターネットがしたいという理由で海外へ出る人は一定数いるらしいよ。あちこちにルートができている。中国のネットも色々微妙なんだけど、まったく見れないよりは遥かにマシってわけ」

「確かになあ。僕もたまにパズドラは恋しい」神白は真顔で言った。

「じゃあ、あなたも来る?」

「いや、僕は……」神白はそこで間を置いた。「うーん、ネットはもう一度したいなあ。そっか、海外へ出れば、見れるのか……。まあでも、今年はやめときます。これから台風の季節だから」

「台風?」僕は聞き返した。
神白の言うことがまったく分からなかった。

「実家の、家業を手伝わないと。僕の家は一応、農家だからね」神白は微笑んだ。

僕はそのとき初めて、今まで大きな認識の齟齬を生じていたことに気づいた。

住むところが違っている、ということに。

僕たちにとっては、神白の住む町は何も無い場所で、そこから出ようともせずブラブラしている神白は得体の知れない引きこもりでしかなかった。しかし神白にとっては、そこに全てがあったのだ。

「……ごめんね。巻き込んでしまった」

「いや、僕が巻き込んだんです。当初の予定通り、電車で移動していれば伊東君は安全だった」

「どうだろうね……それは」

関所法の施行開始はあまりにも突然だった。事前に告知はされていたはずだが、僕や神白のように世間知らずな若造にとっては、まったく為すすべがないほど唐突なことだった。結局、その開始日にどこに居たとしても、同じような結果になっていた気がする。

「とにかく、僕はあのときは気が塞いでたから、ちょっと遠出したかった」と神白は言った。「それで、結果的には、十分すぎるほどリフレッシュできましたよ」

「どうして気が塞いでたの?」

「そりゃ、自警団作るのにけっこう苦労したもの。何事も立ち上げが一番難しいのに、出来上がったところを横取りされて面白くはない」

「どうして取られちゃったの?」

「言ったでしょう? 謀反を起こされた。下手に民主的な組織にしてきたのが悪かった。リーダーの自分が多数決で追い出されるなんて、予想できる? こんなことなら滅茶苦茶横暴な独裁者をやれば良かったかなって……でも、そんなやり方は僕には向いてない。それで、ずっと考えて、何故こんなことになったんだろうって」

「考えすぎ」と、ビィが窓の外を見たまま言った。「どうせ猿山のボスなんだから、もっとバカにならないと」

「まあ、君には向いてないんじゃない」と、僕も追い打ちをかけた。

「そう思う?」

「中身はともかく、見た目に威厳がない」

「ああ、まあね……」神白はなぜかそこで声を立てて笑った。「伊東君が僕の中身を評価してるとは知らなかった」

「だって、中身は怖いよ、君は。ときどきすごいサイコ野郎なんじゃないかと思う」

「そうそれ、わかる」とビィが口を挟んだ。「丁寧に頭下げながら銃とか乱射してきそうな感じあるよね」

「いや、なにそれ。どんなイメージ持たれてるんですか、僕は」

間も無く電車はまた、小さな駅に止まった。今までの駅での停車に比べると、長い停車だった。車両が連結される旨の車内放送が入り、ガチャンガチャンと重たい音がして、今まで先頭だった車両の前に別な車両が繋がった。

その次の駅で大量の乗客が乗り込んできた。
車両は窓に背を向ける形で横長の席が設けられ、中央は大きく空いている。その広い空間に列をなして乗客が入り込み、すし詰めとは行かないまでも、一見ほぼ満員という状態になった。

僕はぼんやりと彼らの足元を眺めながら、会社員はどうして皆、似たような靴と服しか着ないのだろう、まるで制服のようだなと考えていた。

しかし、気づくとビィが、痛いほど強く僕の二の腕を握りしめていた。

そこで初めて、何かが変だと気付いた。

乗り込んできた数十名の乗客の足元は、似たような靴ではなく、まったく同じ靴だった。茶色いフェイクレザーのビジネスシューズ。靴下は黒、スーツはダークグレー。全ての足が、ぴったりと正しい方向を、つまり車両の右半分に乗る者は進行方向に対して右を、左半分に乗る者は左を向いている。列は右向きと左向きで2列ずつ作られ、定規で測ったように正確な等間隔だった。

沢山の乗客がいるはずなのに、誰も一言も喋らず、息遣いも、衣擦れの音も聞こえない。何十足もの同じ靴、同じ足が、貼り付けたようにその場を動かず、一糸乱れず直立していた。

僕は自分の目の前にきっちりと形作られた足の列を見ながら、顔を上げる勇気が出なかった。膝と膝が付きそうなほど、息がかかるほど近くに、得体の知れないものが並んでいる。

気味の悪い列の向こう、僕たちの斜向かいに3人の中年男が座っており、彼らだけは間違いなく人間らしく見えた。しかし、役人風の生真面目な見た目でありながら、目だけが非常に鋭く、特に右端のひとりははっきりとこちらを値踏みするように睨んで「見ている」ことをアピールしてきた。

その3人と僕たち以外は、席に座っている者はいない。

胃の真下あたりが、氷を入れたように冷たく感じた。情けない話だが、僕はビィの顔も見ることができなかった。身じろぎをするのが怖かった。

逆隣に座る神白の拳が膝の上で硬く握り込まれ、浮き出た関節の周りが真っ白になっていた。
まさか闘う気じゃないだろうな。

列車は単調な揺れを刻みながら走り続ける。改めて見ると、とても遅い。飛び降りたって痛くないように思える。いや、この際ものすごく痛かったとしても、ここに座っているよりずっとマシじゃないのか。

地獄のような時間だった。呼吸の仕方が分からなくなりそうだった。得体の知れない人でなしが吐いた空気を僕は吸っているのか? いや、そんなことを考えては駄目だ。死にたい。死にたい。死にたい。

車内放送が入ったが、僕は聞き取れなかった。音が言葉として認識されない。ただ、次の駅名を告げたらしいことは何となく分かった。

「伊東君」神白が僕の耳元で、ほとんど声を出さずに囁いた。「降りるよ」

列車がブレーキをかけ始める。キュルキュルと甲高い摩擦音が響き渡り、身体が自然と傾く。足の列は微動だにしない。降りることができるのか不安になったが、僕たちが立ち上がろうとするとさっと足の列が後ろに下がり、ドアまでの道のりが空いた。その昆虫のような動き方に、僕はまたぞっとした。

顔を上げられない。振り返れない。ヤツラの顔を見たら、絶対にこの場で吐いてしまう。

電車は僕たちを締め出すように下ろすと、軋んだ音を立てながら加速して去って行った。

誰もいない、屋根も無い、小さな素朴なホームだった。僕はその端まで行って吐いてこようかと思ったが、
「お兄ちゃん!」
と叫ぶビィの顔が喜色満面、興奮に輝いていたので、呆気にとられて吐き気を忘れてしまった。

「見た? すごい。アレは進化系だよ。あの自然な歩き方を見た? 人間のように歩いてたよ!」

「君さ……」僕はしばらく絶句してしまった。

「それに、電車の揺れに合わせて重心を変えたよ! 見た? アイツら、吊り革を持たずにずっと立っていた!」

「驚くポイントはそこですか」神白が言った。「僕、すごい怖かったんですが」

「あ、怖がってたんだ」ビィはけろっとして言った。「ぶん殴ろうとしてるのかと思った。あなたが暴れ出したらどうしようかと思ったよ」

「僕もそう思った」と僕は言った。

「いや、ちょっとそれも考えたんだけど」神白は平然として恐ろしいことを口にする。「でもあの3人が操ってるんだろうから、たぶん移動をさせているだけで攻撃の意思は無いんだろうし、手を出すとまずいことになる気がして」

「たぶん公的機関だよね」ビィは言った。「警察っぽい顔だったね。その類でなければ、関所を通れないはずだし」

「何が起きてるんでしょう。政府公認で動いてるゾンビがいるってこと?」

「私たちと同じようなことをしてるのかも」とビィは言った。「捕まえて、コードを書き換えて、自分たちの手駒として取り込むっていう。でもよく、あんな堂々と電車になんか乗せるね。インターネットが無ければ噂なんて広まらない、どうとでも情報統制はできるって算段なのかな」

「やっぱり、ネットが止まってるのは政治側の意向なんでしょうか」神白はぼんやりと電車の去った方向を眺めた。

「そうなんじゃないの、分からないけど。上からストップをかけない限りは、復旧を阻止できるようなものじゃないはず」

「ですよね……」

僕は改めて吐き気が込み上げてきたので、ホームの端まで行って全部吐いた。

僕が戻ってくると神白はペットボトルの水をくれた。
「大丈夫?」

「大丈夫ですよ」僕はできる限りゆっくりと息を吐いた。「どうぞお気遣いなく」

「あっちに座ろうよ」ビィが僕の手を取って、ボロボロに錆びたベンチを指差した。塗装がほとんど剥げていたが、コカコーラのロゴ入りなのが分かった。

掲示された時刻表の通り、20分後に次の電車が来た。また何かが乗っていたらどうしようかと思ったが、特にそんなことはなく、ごく普通の買い物客みたいな人間が疎らに席を埋めているだけだった。

「さっきの電車は当たりだったねえ」とビィは言った。

「当たりね……」
自分は、この人を許容できるのだろうか。ビィの無邪気な目を見ながら、僕は本気で悩んでしまった。

「あの人達はアレに指令を出せるのかな。プログラマーには見えなかったけど」と、神白は言った。「でもやっぱり、あのままK駅方向に向かって行けばだんだん混み合ってくるはずだし、人混みでトラブルがあれば指令を出して制御するんでしょうね。ゾンビにはそれを操る術者がいるっていう、伝説の通りですね」

「違うよ、それはキョンシーだよ」ビィは言った。「ゾンビを蘇らせる術者は、蘇らせたゾンビを操るんじゃなくて、奴隷として売り飛ばすの。魂のない身体で生き続けるという運命を課すこと、蘇らせることそれ自体が、呪いなの」

「怖い話はやめて」僕は結構真剣に言った。「もう現実だけで十分」

「そう、でもさ、あの人たち現代のゾンビつかいってことですよ」神白はなんだか面白そうに言った。「しかも彼ら、たぶん税金で働いてるんですよ。もし公的機関の人間ならね」

「すごいね。納税する理由がまたひとつ減った」僕は投げやりに言った。

「税金で働くゾンビつかい。ウケる」
ビィはそう言いながら、既にまったく笑っておらず、揺れる吊り革を見上げながら何事か考え込んでいた。


2.

K駅で新幹線に乗り換えた。

平日昼間の下り列車なので、やはり車内は閑散としていた。自由席の車両でさえ、数える程の乗客がぽつぽつと座っている程度で、そのほぼ全員が何かしらの文庫本か雑誌を読んでいた。
スマホでネットサーフィンができなくなったことで、確実に本屋は儲かっているに違いない。

僕たちは3人掛けのシートに並んで入ったが、通路側に座った神白は間も無くふらっと立ち上がり、どこかへ行ってしまった。

僕とビィの間にも、ほとんど会話らしい会話は無かった。
窓の外の景色は飛ぶように流れており、空は明るく、暑そうだった。

やがて、ビィが「トイレ」と言って僕の前を横切り、通路へ出て行った。

3人掛けシートの真ん中に取り残された僕は、何か急に心もとなくなり、ついまた先程の『進化系』のことを思い出してしまった。

あれほど自然な動線で動き回れるなら、電車のみならず、様々な場所に自由に出入りできるだろう。先程のは集団で一糸乱れぬ立ち方をしていたから分かりやすかったが、ひとりやふたりで人混みに紛れ込んでいたら、もはや区別は付かないかもしれない。

今後、誰も気付かないうちに、ヤツラのコードが全て書き換えられ、この社会に溶け込んでいくという決着もあり得るのだろうか。

もやもやとした吐き気が再び湧きそうになったとき、ビィが戻ってきた。

ビィは僕の足をまたいで元の席に座りながら、
「彼、泣いてたよ」

彼、が神白を指しているということが僕にはなかなか飲み込めなかった。

「泣いてた?」

「うん、デッキでめそめそ泣いてた。なんかすごく声を掛けづらくて、素通りしてしまった」

「なんだ、どうしたんだろう」

「キャパ超えちゃったんじゃない? 彼もお坊っちゃんだから」
ビィの口調は、特に馬鹿にするというふうでもなく、大して驚いてもいないようだった。

「……ほっといた方が良さそう?」僕は、ビィに聞いた。

「どうだろう。まあ、プライドもあるだろうしね」

「びっくりだな……なんか、しっかりしてる感じだったから」
僕は自分の動揺をうまく言葉にできなかった。

「あの年齢でしっかりしてる人なら、働いてるよ」と、ビィは言った。

「まあ、そうなんだけど」

神白に頼りすぎた、と思った。
この数週間、本当に僕は無気力で受け身な態度だった。神白が彼なりに何か考えて動き、事態を打開しようとしている間、僕は周りのこと全てに見向きもせず、放置し続けた。

自分のせい、などと考えるのは傲慢だと分かっていたが、僕の態度が神白の緊張を倍増させていたことは間違いない。あげく、「僕の力不足で」とまで言わせてしまった。

「やっぱり、ちょっと見てくる」
僕は席を立った。

滅茶苦茶泣き腫らしていたらどうしようかと思ったが、デッキの窓際から振り返った神白は、言われてみれば目が少し赤い、という程度だった。

「あ、ごめん」神白はすぐに言った。「もう戻るよ」

「大丈夫?」

「大丈夫ですよ。どうぞお気遣いなく」
神白は少し笑いながら言った。

「ああ……。それ、自分が言われる側になると、すごく腹が立つって分かった」

「だろうね」

「……神白は」僕は素早く言葉を選んだ。「思い詰めると何をするか分からないから、見ていて不安になるよ」

神白は少しのあいだ何も答えずに薄笑いを浮かべていた。

「生意気なんだよ」と、神白は言った。「若いうちから、ませてると、苦労するぞ」

「僕の話をしにきたんじゃないんだよ」
僕は無意識に語調を強めてしまった。

「うん、ごめん。でも、もう戻ろう。女の子をひとりで置いてきちゃいけないよ。何が乗ってくるか分からないんだから」

「あのね、話を……」

「伊東君」神白は真顔になって、じっと僕を見た。

色の薄い目だ。

「大丈夫。僕は大丈夫」
神白はしっかりと言い切った。

「そうは見えないけど」

「ありがとう。心配されるというのは嬉しいね」
神白は僕を促して車両に入った。

「はぐらかしてる」僕は神白に付いて通路を行きながら言った。

「はい、はい」

ビィは窓の外を眺めていたが、僕たちが戻ると振り返って「おかえり」と言った。「なんで泣いてたの?」

「すみません。疲れてました」

「じゃあここで泣いてればいいじゃん」ビィは平然と言った。「ひとりで勝手なところ行かないでよね。何が乗ってくるか分からないんだから」

「そうですね」神白は笑い出した。「ショウコさんには、敵いませんね」

「よく言うよ、そんなこと全然思ってないのに」

「そう、知ってる」と僕は言った。「彼が丁寧な口で何か言うときは大抵、嘘だよね」

「まあ、礼儀正しいサイコ野郎だもの、仕方ないよね」とビィは言った。

「そうそう、性根がサイコ野郎だから仕方ない」

「ちょっと……」神白は席に着きながらぼやいた。「ほんとに嫌なカップルだな」

「あ、今のは本音っぽい」

「うん、本音っぽい」

昼時だったが、残りの乗車時間が中途半端なので、S駅で降りてから昼食を考えることにした。
しかし、これがまた、結果的には大きな判断ミスだった。

まず手始めは、自販機だった。

『関所』の壁で覆われた改札を出て、自販機で飲み物を買おうとすると、コイン投入口を囲むようにガムテープがベタベタと貼られ、マジックペンの雑な字で「1人1日1点まで」「ご協力下さい」「独占禁止」と書き込まれていた。

禁止、の文字はわざわざ赤い色で囲ってあった。

「何これ」ビィは笑った。

「ほら、異物混入騒ぎのやつじゃない?」と僕は言った。「あれ以来、缶とかビンとかは品薄だから」

「ふーん」

「日本も貧しくなったな」と、神白は言った。

僕が札を入れ、ビィがコーヒーを買い、釣銭を入れ直して僕のぶんのペットボトルも買った。
「神白は?」

「僕は水で」

神白のぶんを買おうとして釣銭を入れ直しているところに、若い男が血相を変えて飛んできた。

「ちょっと! ちゃんと見てますか? 書いてあるでしょ? ちゃんと並んで!」

「何が?」神白は素早くボタンを押していた。

「ちゃんと並んで!」若者は大学生のような雰囲気だった。眼鏡をかけた顔は神経質そうで、強そうには見えないが、なぜか威圧的だった。
「書いてあるでしょ、ひとり1点までです」

「見て分からないの? ひとり1点買ってるよ」ビィは物怖じせず言い返した。

「そういうことじゃなくて、ちゃんと並ばなきゃダメなんです。『おごる』とか『家族のぶん』とかそういう例外は認めてないんです。キリがないんだから」

「はあ?」とビィは叫んだ。

「いや、これで問題無いでしょう?」
神白はペットボトルを取り出して見せた。
「僕たちは3人いて、ここに飲み物は3つある。それで問題無いでしょう?」

「そういう屁理屈を言わないで」若者は自信満々に言い張った。「1本ずつ買って下さい。ひとりが、まとめ買いするのはダメなんです。紛らわしいことをしないで。キリがないんだから。もういいですよ。これ以上買わないでね」

「屁理屈はどっちだよ」
と、僕は思わず言った。

「何、どうしたの」別な若者が素早く近付いてきた。こちらは髪を赤毛に染めてきっちりと逆立てており、見るからにガラが悪そうだった。

「おごり」と眼鏡が言う。

「ああ、おごるのはね、ダメなの」赤毛は偉そうに告げた。「それはね、知らなかったんならしょうがないさ。知らなかったんでしょ?」

「知らなかった」神白は探るような目でふたりの男を見比べながら、「もう、行ってもいいでしょうかね?」と言った。

「うん、次から気をつけてね。あんたたち余所者かな? もうこのS市内では全面的にこのルールだからね」

「それは怖いですね。気をつけますね」
神白は僕の袖を引っ張って歩き出した。

僕はあまりにも頭に来てしまって、そのまま早足で下りのエスカレータに乗ろうとする神白を、突き飛ばしてやりたかった。

エスカレータからは、巨大歩道橋から駅ビルに流れ込んでくる、そして流れ出ていく、人の流れを見渡せた。東京のような大都会には及びもしないが、一応はこの地方都市の中心地だ。僕たちにとってはだいぶ久方ぶりの「人混み」でもあった。

「今のは何?」エスカレータの中程で、僕は我慢できずに言った。

「なんでしょうね。本気なのかな」神白は鼻で笑った。「いや、笑っちゃいけないのかと思って困ってしまった」

「笑ってる場合なの? なぜ殴らなかったの?」

人間を殴ってどうする」

「殴れないの? なぜ引き下がった?」

「いや、どうかな」神白はまだ笑っていた。「なんか組織だって動いてる感じだったね。リーダーの面が見てみたいな」

「お腹すいた」とビィは言った。

僕はまだ気持ちが収まらなかった。
「ねえ、腹が立たないの?」

「僕はそんなに。こいつら数も数えられないのかと思ったら、笑いそうになっちゃって」

「数も数えられない奴に、馬鹿にされたのに?」

「伊東君が殴るんなら、僕も加勢してやるさ」と神白は言った。

駅ビルに隣接するデパートのレストラン街へ入り、適当なものを食べるつもりでいたが、ここでも妙なことが起きていた。

まず、とんでもない長蛇の列だった。各店の前に並ぶ順番待ちの列が、3度4度と折り返し、向かい側の別な店への列と融合しかけながら、行き場を失って更に通路の奥へと続いている。自分がどの店へと続く列に並んでいるのか、分かっていない者も相当いるように見えた。

フロアは芋を洗うような状態で、ほとんど隙間もない。人の流れに押されてのろのろと移動するのが精一杯だった。

「今日、なんかの日だっけ?」ビィが聞いた。

「なんでもない気がするけどなあ。平日だし」と神白は言った。

「これ、どこも2時間は待ちそうだね……」
僕が呟くと、すぐ脇にいた見知らぬ老人が「5時間だってよ」と口を挟んできた。

どうにも清潔感の足りない、締まりのない身なりの老人だった。
「5時間」老人はもう一度言った。「もうね、昼めしじゃなくて夕食だ」

「今日、何かあるんですか?」と神白が聞いた。

「いや、最近は毎日こんなん。毒味をしてっから」老人の言葉にはこの地方独特の訛りがあった。「いったん毒味役に食わすて、何でもねえて分かってからでねと出せねんだと。そっだらことすって、……」
僕にはその先がまったく聞き取れなかったが、神白は難なく理解した様子で、
「いや、びっくりしました。ここに来たの久しぶりだもんで」

「昼、まだなら、あっちさ行ったほういいよ。あんさ、あのM町の方の」
老人は僕たちに向かってまだ何か言っていたが、次々と通行人に割り込まれて、姿が見えなくなった。

通りがかりのパスタ店の一角に、その『毒味役』と思われる男がひとり見えた。先ほどの自販機の男たちとよく雰囲気が似ており、学生風のカジュアルな出で立ちで、目つきは悪く、イライラした顔で『作業』をしていた。彼の前には大量の、さまざまな飲み物が入ったグラスが並べられており、テーブルの様子はまるでちょっとした実験室のようだった。

男は次々とグラスを取って一口ずつ飲んでいき、食器の側面に何かメモ書きのされた付箋を貼った。男が飲んだそばから店員がそれを引き取り、ストローを替え、付箋をつけたまま別な卓へ運んでいく。

食べ物の皿についても同じように、全ての皿、全ての具を満遍なく一口ずつ食べ、付箋をそえて他の卓に運ばせる。店内は半分ほどが空席だったが、どの卓にも付箋つきの食事が既に並べられ、すぐにも食べられる状態になっている。店員は時計と付箋を見比べながら、ある一定の時間を置いてから客の呼び出しを掛けているようだった。

「食欲が失せる景色だな。全部の店でこれやってるのか」神白は呆れたように言った。

「なんで皆、並んでるのかな?」とビィは言った。「ここでなければ食べれないような何かがあるの?」

「分からない。とりあえず出ましょうか」

結局、レストラン街を半周しただけで、僕たちは諦めてそのビルを出た。

それから徒歩圏内のファミレスやファストフード店を思いつく限り回ったが、どこも似たような状況だった。むしろ、日差しのきつい屋外に並ばなくて済むぶん、まだ先ほどのレストラン街のほうがマシなようにすら思えた。

もうコンビニでいいから、ということになったが、この騒ぎ以来、コンビニ自体の数も激減している。
だいぶ駅から離れたところにようやく一店見つかり、入ってみると食料品の棚が空っぽで、残っているのはガム、飴、ミントタブレットの類。

それでもビィは「昼はこれでいいや」と言ってハイチュウを3本買った。

レジの前に小型のホワイトボードが掛けてあり、「次回仕入れ予定 明日10:00 短縮営業中 7-20時 御協力に感謝いたします」と書かれていた。

僕も仕方なく、ガムを買った。少なくともこれからしばらくは空腹を誤魔化して過ごすしかなさそうだ。

僕たちは店を出てすぐ、どうすべきか話し合った。
と言っても、選択肢は少なく、神白の家に行ってみるか、僕の家に行ってみるか、くらいだった。どちらの家にも、出たときと状況が同じなら、ある程度の非常食はあるはずだった。しかし問題は、状況がどの程度変わっているのか予測できない点だ。

「私はこれ以上、駅から離れたくない」とビィは言った。「このぶんじゃ交通網も期待できないよ。神白さんの家まで移動してしまうと、そこで暮らすことはできても、当分は街へ戻ってこれないかも知れないよ」

「でも、衣食住確保されてこその悩みでしょう、それは」と、神白も譲らなかった。「僕の地元なら食べ物には困らない。少なくとも米と野菜と卵は確実です。この辺りにとどまると、飢え死にはしないとしても、食べ物を手に入れるためだけに毎日大半の時間を無駄にすることになる」

ビィは特にそれに対してコメントはせず、ハイチュウを開けて次々と口に入れ始めた。

僕はガムの外フィルムを剥がしたが、これを食べると余計に空腹を感じるのではないかと、少し不安になり、結局そのままポケットへ入れた。

「結論が出ませんね」神白は言った。

「それなら、ここで解散しよう」
僕は、ずっと用意していた言葉を口にした。
「神白さん、今までありがとう。もう帰っていいよ」

「待って……」神白は笑いかけたが、さっと真顔に戻った。

「もう大丈夫。僕の家はここから歩いて20分もかからない。このまま彼女と帰るよ。今までありがとう」

「……家までは送って行きますよ」神白はじっと僕を見ながら言った。

「いや、もうこれ以上寄り道しないほうがいい。ビィが言う通り、帰る足がすぐ見つかる保証は無いんだよ」

「そうだけどね……」

ビィは何も言わなかった、というか、何か言うどころではないほどハイチュウを口に詰め込んでいて、まだ追加する気のようだった。

「……分かった。じゃあここで」神白は相当長くためらってから、やっと言った。「寂しくなるね。気をつけて」

「お金を貸そうか?」と僕は言った。「タクシー代くらいは」

「いや、小銭はあるから、大丈夫。それで足りなければ、その時どうにかします」
神白は右手を差し出した。
「伊東君、握手」

「しないよ」と僕は言った。

「あ、まあ、そうだよね」
神白はちょっと笑って、
「じゃあね」
と、ごく素っ気ない挨拶をして、そのまま駅の方へ歩き出した。

振り返られたりすると困るので、僕もすぐに自分の家の方向へ歩き出した。

ビィは口をずっともぐもぐさせながら付いてきた。

「ずいぶん冷たく追っ払ったね」
5分以上も無言で歩いてから、ようやく口が空になったビィは言った。

「うん、まあ、お互い限界だよ。自分の家が一番だ」

「握手してあげなかったの」

「情がわいても困るもの」

「そういうのは良くないよ、伊東君」ビィはふざけたような口調で言った。「拒絶してはいけないよ。相手が可哀想じゃない?」

「うーん、可哀想なのかなあ……」
神白が別れたくなくてためらっていた数十秒間を、僕は思い返した。泣きそうになった。可哀想? この程度のことがそんなに?

この世には、もっと恐ろしく耐えがたい別れが沢山あるというのに。

「また、暗いこと考えてる」ビィが言った。

「わかる?」

「わかるよ。お兄ちゃんのことは何でもわかるんだ」

「そりゃすごい」
僕はビィの手を取って緩く握り、歩きながら、これ以上は何も起きなければいいが、と真剣に祈った。

4章後半につづく)


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

note.user.nickname || note.user.urlname

それはともかく「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」は二次創作、ファンアート、絵、歌、朗読、コスプレ、無断転載、再配布、全て自由です。作者を偽らないでくれればあとは何をしてくれてもかまいません。もし面倒なら、特に報告なども不要ですので、皆で可愛がってやってください。

22
アラサーのママです。長編小説「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」目次ご覧ください→ https://note.mu/toma_mori/n/n40761080856c
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。