[最初から]ゾンビつかいの弟子 3章(後半)

(約11000字 / 読むのにかかる時間 : 約20分)

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こちらは「一気読み」版です。


三章(承前)

3.

神白が吊るしてくれたビニルシートが、真夜中の風に揺れている。焚き火の明かりが見えたり隠れたりを繰り返す。その火の向こうにが見える。影は人の形をしている。

だがその動きは、およそ人とは思えない奇妙な軌道だ。

いくつもの影が横滑りして、火の向こうに現れては闇に溶けて消える。
揺れる炎のこちら側には神白の背中があり、彼は細く長い棒を振り上げて闘っている。その動作には迷いがなく、真っ直ぐな、純粋な殺意が表れていた。

目が覚めたとき、神白が僕の隣でぐっすりと眠っていて、辺りは青白くほんのりと明るくなっており、僕の頭は割れるように痛んでいた。
身を起こして川のほうを見たとき、そこに焚火の跡が見当たらず、川原の形も自分の想像したものとまったく異なっていることに気づき、僕はようやく、昨夜見たものがすべて夢であったことを知った。

寒くないのに震えが止まらない。熱があるのだろう。どんよりとした倦怠感が襲ってきて、僕はまだ下山が終わっていないことを思い出して絶望した。

唯一の寝袋を僕が使っているので、神白は寒そうに身体を丸めていた。

僕は寝袋を抜け出し、それをそのまま神白の身体に掛けた。青白い彼の顔に手を触れると、火をつけたように熱かった。

僕の手に熱く感じられるということは、神白のほうが熱が高いということだ。

数田の読みが的中というわけか。

寝床にしていた岩を降り、辺りを見渡してみる。朝とも、夜とも言えない不思議な時間帯だった。
空の一部が明るいが、太陽はまったく見当たらない。ぼんやりと景色を、かなり遠くまで見渡すことができたが、全てが青いフィルタをかけたように沈んでいて、本来の色が分からなかった。

風はない。空は晴れている。驚くほど、穏やかで暖かい天候だ。だからこそ裸同然の装備で呑気に眠っていられたのだろう。

他にすることもないので、再び岩によじ登って神白の隣に戻った。
数田からは交代で寝ろと言われていたのに、ふたり揃って爆睡していたようだ。神白も限界だったのだろう。

熊もゾンビも来そうにない。
それなら眠って体力を回復したほうが良いのだろうか?
しかしあまりにもひどい頭痛に、横になろうという気すら起きない。

結局、膝を抱えて座ったまま、うとうとしたり目覚めたりを繰り返した。頭の痛みは途切れなくじっとりと居座り、気力は刻一刻と目減りしていく。
もし今、何かに襲われたら、「逃げるのが億劫だった」くらいの理由で死んでしまうだろうと感じた。

何度目かに目を開けたとき、神白も起き上がっていた。
すっかり夜が明けていた。

神白は機嫌が良さそうな顔で、細長いお菓子をポリポリかじっていた。僕は何秒間もぼんやりとそれを眺めてから、やっとの事でその菓子の名前がポッキーだと思い出したが、更に数秒後、ポッキーではなくプリッツだと気付いた。いや、そんなのどっちでもいい……本当に頭が壊れかけている。頭が痛すぎる。

神白は僕にお菓子の箱を差し出したが、僕は首を横に振った。

「見張り役のつもりが眠ってしまった。ごめん」
と、神白は言った。

「僕の夢の中では君はとてもよく働いてたよ。ゾンビと闘ってた」

「なるほど。お得な夢ですね」

「お得?」

「夢の中で働いたぶん、現実で休んでもいいかなと思える。だから、夢の中で働くと得した気持ちになります」

何を言ってるんだこいつは。しかも自分が見た夢ですらないのに。

「心の底から働きたくないんだね、君は」

「そりゃね。伊東君は働きたいですか?」

「そうでもないけど、お金は欲しいし、人から施されたくはない」

「確かにね……。正論だ」
神白は感心したように溜息をつき、脇に置いたリュックからまた別なお菓子を取り出した。

「色々入ってるんだね」
数田のことだから、合理的な栄養補給用の物資しか入れてないだろうと思ったのだが、意外とつまらないお菓子も詰め込んであるらしい。

「数田君の好みが少し分かって面白いですよ」神白はごそごそと荷物をあさった。

出てきたのは5種類のポッキーと、3種類のプリッツ。しかも、同じ箱が2つずつある。更にトッポが出てきた。

「なにこれ。あいつバカなのかな?」

「ユーモアのつもりかも」

「センスがよく分からない」

「僕はね、彼はアーティストじゃないかなと思いますよ」神白はトッポを開けた。「県境でウロウロしてたでしょう? 最初は潜入取材とかしてるジャーナリストなのかなと思ってたんだけど、結局行き当たりばったりに僕たちに付き合ってくれるから、なんだろう、そういう、ポリシーが無いことをポリシーにしてる人間なのかもなって」

「ああ……」
確かに、その解釈はかなり真実に近そうだった。ポリシーが無いことがポリシー。作品を作り出すのではなく、人生そのものをくだらない形に投げ出すことで何かを体現していくタイプのアーティスト。いや、あいつにはそこまでの覚悟があるようにすら見えないが……
だいたい、神白のような田舎バカのニートにまでこんな論評されるような人生でいいんだろうか?

飲まず食わずでいるのはまずいと思い、プロテイン入りと書いてあるゼリー飲料に口をつけてみる。だが、泥を食べているような気分だった。具合が悪すぎて、味がしない。これって本当にただの風邪なんだろうか。

神白も決して食欲があるわけではなさそうだった。トッポをかじっているが、それは「食べている」というよりも、そうやって「時間を潰している」という態度に見えた。

腕時計を見ると8時前。数田が来るまでにはまだ間がある。

「午前中にちょっとくらいは下っておく?」と僕は聞いたが、

「いやー、僕はいいかな」神白は少しも動こうとしなかった。

「でも、まだ先は長いわけでしょ? 午後に数田が来たからといって、結局は歩かなきゃいけないんだし」

「そう、どうせ午後は苦しまなきゃいけない。だから今くらいゆっくりしていたいです。運が良ければ、午後までに風邪が治るかもしれないし」

そんなわけないだろう、と思ったが、神白のやる気が無いとなると、僕ひとりでは動きようがない。数田が来たときにバラバラな位置に居ては、手間が増えるだけだ。それに、僕としてもこの頭痛を抱えて歩くのは非常に気が進まず、たとえ事態の改善には繋がらないとしても、今すぐ出発せずに済むのはありがたかった。

結局、数田は予定よりもかなり早く到着した。
昨日とほぼ同じ服装に、昨日よりはだいぶ小ぶりのリュックという出で立ちで、相変わらず取りつく島もない無表情だった。

数田は挨拶もそこそこに「雨が降るらしい。急いで」と言い出した。

「そう言われてもね」

「はい」数田は問答無用で僕に天然水のペットボトルを押し付けた。

「何これ」

「解熱剤」数田は丸く白い錠剤のシートを差し出した。「あと、抗生物質」カプセルが出てきた。「それと、整腸剤」また別な錠剤が出て来る。「全部2錠ずつ飲んで」
数田は神白にも同じセットを押し付けた。
「20分くらいで効き始める。でも、待ってられないからすぐ出発するぞ」

「そんなに急ぐようなことなの?」

「これって処方箋が必要な薬ですよね」と、神白は言った。

「ああ、ちょっとコネがあって」
数田は悪びれなく言った。

「世の中は悪い奴がいっぱいだ」
神白は薬を飲みながら、少し嬉しそうに言った。

「悪い奴で思い出した」数田は胸ポケットから、定期入れのようなものを2枚取り出した。「届いてたんだ」

「何それ」

「関所の通行証」

渡されたケースには名刺大の薄緑色の厚紙が入っており、僕の名前、生年月日、住所と、2次元バーコードが印刷されていた。

思ったよりもローテクだ。
いや、思った通りと言うべきか。いかにも役所の作りそうな小道具ではある。

この紙切れ1枚のために、2ヶ月以上も根無し草としてさまよったのだ。

「割と簡単に偽造できそうですね」神白は自分のぶんの通行証を見ながら、首を傾げていた。「でも、どうしてこれを数田さんが?」

「例のなんとかさんから預かった。預かったというか、麓の郵便局留めになっていたのを代理で受け取りに行った」
結局、数田もあの土産物屋の大学生の名を覚えていないらしい。そう言えば彼女は、一度も名乗らなかった。

「ともかくこれで僕たちふたりは帰れるわけですね」

「さあ出発しよう」
数田は神白から取り返した登山リュックに何もかも詰め直し、今日背負ってきた小ぶりのリュックも無理矢理押し込んだ。

空は真っ青で、風も爽やかだった。素人目には、雨が降りそうな気配は全くない。
そして、川原から元の道へ戻るため、出鼻から急な上り坂を行かなければならない事が、僕の気持ちを余計に萎えさせた。

割れるような頭痛、というか、もう既にどこか割れてるんじゃないかと思うくらい、猛烈に辛かった。一歩一歩が重すぎる。
しかし、時間にして10分ほどのその急な坂を登り切ると、耐え難かった痛みはぼんやりとした圧迫感に変わっていた。
森の中を行く緩やかな下り坂が始まると、全ての苦痛が波を引くように消えていき、それに合わせて気分も急激に上向いてきた。

何を悩んでいたのだろう。
鼻唄でも歌いたいような気分だ。

目に入る景色、肌に触れる空気の全てが柔らかく、満ち足りて完璧なものに感じられた。

「真っ青だな…」
ふと振り返った数田が、昨日と同じく、心配そうに言った。

「ほんとだ。大丈夫ですか?」
神白も横から覗き込んできた。

「良い気分だよ。ていうか、さっきの薬、本当に風邪薬?」

「え、なんで」

「ものすごく良い気分だよ。ものすごく。何か変なもの飲ませてない?」

「僕はなんともないですけど」と神白は言い、

「元来、風邪薬にはそういう作用もある」と、数田は背を向けながら言った。

「そういう作用って?」僕はぼんやりと、なんだか笑い出しそうになりながら、数田を追った。「そういう作用って何?」

「抑制作用だ。大麻と同じ」

「大麻?」

「口じゃなく足を動かしてくれ」

「僕はなんともないですけど」と神白は繰り返した。

「人それぞれだ。体質による」数田はつまらなそうに言った。

気分は上々だが、身体は重たかった。力が入りづらく、自分の意思が四肢に行き渡るまでに微妙なタイムラグがあるように感じる。それでも、痛みと不快感の無い下山は昨日よりずっと楽だった。僕は薬という現代技術のありがたみを全身で実感した。

「こんなことは、もう、しないでくれよ」
だいぶ下った後で、突然数田が言った。
神白に向かって言ったらしい。

「え? あ? ああ、はい」
神白は聞き落としたのか、雑な返事をした。

「追われて怖かったのは分かるが、事態を悪化させてる。あんたの自己責任では済まないんだ。他の2人を死なせるところだったんだぞ」

「ああ…」
後ろを行く僕の位置からは神白の顔が見えなかったが、もしかしたら嫌そうな顔をしたのかもしれなかった。だいたいこういう場面ですぐに謝らない神白は珍しかった。
「でも、僕ひとりだったら宿に残って闘いましたよ」と、神白は言った。「連中がゾンビを送ってきたのは僕たちを口止めするためじゃなく、ショウコさんを取り戻すためでしょう。真っ向から闘ったら、彼女は自分が戻れば済むことと言い出して、結局連中の元に戻ってしまったと思う、だから…」

数田は皆まで聞かずに急に足を早めた。

「おい、数田さん!」
神白はぴたっと立ち止まり、やや高めの声で叫んだ。

数田は立ち止まらず、その背中はどんどん遠ざかる。

ふたりとも元気だな、と僕は思った。
数田が苛立ちを隠さなくなったのは、危ない状況を脱して緊張が緩んできたからだろう。下山道の終わりは近いに違いない。僕には何よりもそれが嬉しかった。

「数田!」
神白は、カーブの先に消えようとする数田をもう一度呼んだ。
「数田、薬!」

「は?」
数田は立ち止まり、うんざりした顔で振り向いた。

「頭痛いから、追加で欲しいんだけど」

「それがものを頼む態度?」

「ごめん」神白は素直に言った。「ごめんなさい。置いてかないで。あと、薬をください」

数田は腕時計を見た。
「まだ効いてるはずなんだけどな」

「でも痛いんだもの」

「数田、僕も薬」
と、僕は言った。

数田は引き返してきて、僕と神白にそれぞれ、錠剤のシートを差し出した。
「5万円な」

「そういうのいいから」

「それを飲んだら、残りあと1回分ずつだから。ペース考えながら使ってくれ」

「数田、飲み物は?」

「伊東君」数田は溜息をついた。「呼び捨ては構わないけど、俺を顎で使うなよ」
しかし数田はそう言いながら、汗をかいた冷たいペットボトルをくれた。

スポーツ飲料を一度凍らせたものらしく、容器の中央に大きな氷の塊がまだ残っている。

「え、いいなあ。数田、僕のぶんは?」と、神白が言った。

「あんたまだ持ってるじゃないか」数田はまた先を歩き出した。

「でもさ、もうこれ温いし……」

「ショウコさんは神白の思い通りには動かないと思うぞ」と、数田は言った。「自分が何をしたいか分かっている人だ。些細な状況の違いで意見を変えたりしない。彼女はいずれにせよ長くは留まらないと思う」

「今どこにいるの?」僕は急に不安になって聞いた。

「俺の家にいる」

「そう……」

「彼女も体調は良くなさそうだったから、さすがに回復するまでは勝手に動かないだろう」

「どうかなあ」
この数ヶ月間のビィの行動力を振り返ると、その予想はかなりの希望的観測に思えた。僕たちが下山した時、ビィがまだ同じ場所で待っていてくれる可能性は、五分五分だ。

やはり、昨日死ぬ気で彼女と一緒に下山すべきだった。何故こんな最悪のタイミングで風邪など引いてしまったんだろう。

「僕は別に、彼女を思い通りにしようなんて思ってないですよ」神白はぐちぐちと言い返した。「ただ、こんないいタイミングで風邪引くなんて思わなかったから、それさえ無ければ、わりと…」

「けっこう意地っ張りなんだなあんた」
数田はばっさりと遮った。

神白はいつものトーンで「そうかな?」と笑ったが、そのタイミングが2秒遅かったので、一瞬だけすごく嫌な沈黙が生まれた。

もしかすると神白は、普段から苦労して自分の感情をコントロールしている人間なのかもしれない。珍しく怒ったというよりも、珍しく本心が見えたように感じてしまった。

「君たち、マウンティングし合わないで」僕は仕方なく口を挟んだ。「見苦しいよ」

「ひとこと言いたくもなるだろ。俺はお前たちの5倍は歩いてるんだぞ」

「その件については、あとで2千円あげるからさ」

「伊東君の金銭感覚もひどい」

「数田さん、僕十分感謝してますよ」と、神白は言った。

「俺はね、感謝じゃなくて反省しろと言ってるの」数田は噛んで含めるように言った。「山を甘く見ただろ。次は命は無いと思えよ」

「うん、反省もしてる、でもそれは僕が数田さんに謝らなきゃいけないことなの? 山に入ろうって最初に言ったのはショウコさんだし」

「ああ、そうかよ」

「数田それくらいにしてあげなよ。この人は、イニシアチブ取られると死んじゃう体質なんだよ」

「あ、」
数田は僕の軽口を無視して行く手を指差した。
そこで道が折れながら2つに分かれており、右の道の方の木の幹に、ピンク色のシャツが固く結び付けてあった。
「目印付けておいたんだ。良かった、これであと3分の2だ」

「まだ半分来てないの?」
僕は一瞬、本気で死にたいと思った。


4.

数田が車を停めたという登山口の駐車場が見えたとき、待ち構えていたように雨が降り出した。
空は重い灰色になっており、雨粒はボタボタと音がするほど大きかった。

「あの白い車」と数田は指差したが、言われるまでもなく、だだっ広い駐車場にはその車しか無かった。
駐車場は端から雑草に浸食され始めており、もう何年も前から忘れ去られているような雰囲気だった。

最後の階段を降りきり、広い駐車場を横切る間に僕たちは全身余すところなくずぶ濡れになった。

身体中がキリキリと締め付けられるように痛んだ。神白もしばらく前から、一切口を開かない。数田だけが変わりなく無表情で、足取りもしっかりとしていた。

数田はリモコンキーで鍵を開け、ミニバンの後部ドアを引き開けた。

僕と神白が上がった途端、

「なんだ、男じゃねえかよ」
運転席から若者が振り返って、陽気な大声で叫んだ。

数田よりは少し若いように見えた。カラフルなTシャツにチャラいブラックのジャケットを重ね、よくわからないストリート風のキャップをかぶっている。

数田はリュックを乱雑に投げ入れると、後部ドアを閉め、助手席に回って乗り込んだ。
「ずっと待ち構えてたのか? 家に居て良かったのに」

「男だって知ってたら家に居たよ!」
若者はエンジンをかけ、発進した。「珍しく女の子連れて来て、あとふたり来るっていうから期待してたらこれだ」

「昨日ちゃんと言っただろ。お前が聞いてないんだ」

「だってさ、まさか野郎ふたり迎えに行くために2日連続で山登りするなんて思わないじゃん! 勝手に降りて来させりゃいいだろ?」

「ふたりとも病人なんだよ」

「知るかよ、マジでさー」
しかし若者はルームミラー越しに僕たちの方を見て、「何、具合悪いの? 大丈夫?」と聞いた。

神白はぐったりと窓の外を見ていて、反応しなかった。

僕も面倒なので黙っていた。

「あ、ええ、けっこう酷そう」若者はトーンダウンした。「ごめんね? 俺の声うるさかった? 大丈夫? 吐きそうになったら言ってね?」

「お前まず名乗れよ」と数田が言った。

「あ、数田でーす。よろしくー」

「苗字名乗るな、紛らわしい」

「えへへへへ」

たぶん弟なのだろうと思ったが、もう力尽きたふりをして黙っていることにした。

「なんだよ、マジでさあ、大丈夫なの? この人たち。もしかして外人?」

「いや、日本人だ」

「そっちの人、外人ぽくない?」

「いや、日本人」

「どういう知り合いなの? あの女の子のツレ?」

「若いほう、伊東君がショウコさんの彼氏で、外人っぽいほうの神白は、何だろう、伊東君の手下というか、使い魔みたいな感じかな」

「聞こえてるぞ」神白がうわ言のように呟いた。「数田この野郎」

「うるせえな」数田は体ごと振り返った。「お前だけ降りてもう少し歩くか?」

神白の返事は「死ね」だった。

「はは、すげえな」数田の弟は含みのある笑い方をした。

僕はリュックを勝手に漁ってタオルを探した。何かの景品の手ぬぐいみたいなものが、ほぼ新品の状態で何本も詰め込んであった。
一本を数田に渡すと、彼は「どうも」と受け取って顔と頭を拭き始めた。神白にも渡してみるが、微かに頷くだけで、指一本動かそうとしない。目が座り、顔は土気色だ。このまま死ぬんじゃないかと、不安になった。

辺りは住宅街のようだったが、窓に当たる雨が激しすぎて、景色がよく分からない。しかし、今まで僕たちが滞在した村に比べると、さすがにかなり麓側にあるぶん、何かしらの活気はあるように思えた。

ミニバンは何度か狭い路地を曲がり、間も無く古臭い門のある建物の前に止まった。
「俺、車入れとくから」弟が言った。「先降りて」

「荷物頼む」数田は短く言って助手席を降り、後部ドアを開けて神白を引きずり下ろした。「あと10歩だから。ちゃんと歩いて」

「ごめん」と、神白は弱々しく言った。

「いいから、早く。濡れる。伊東君は? 歩ける?」

「まあまあだよ」

降りてから気付いたが、いかめしく重たそうな門の脇に「数田」の表札があった。

黒い瓦屋根のついた、どっしりとした枠組みのある門だ。今の時代にこんな門を本気で使っている家があるとは。
数田が慣れた手つきで扉を引くと、その向こうに綺麗に刈り込まれた松の木と、ツツジの盆栽が見えた。

足元は年季の入った飛び石。

「君の家、金持ちだね」
と、僕は言った。

「まあ、家はな」
数田は興味も無さそうに頷き、引き戸になっている玄関の扉を開けた。

真っ先に、牛の置物が目に入った。子犬ほどの大きさで、布張りのぬいぐるみだが、妙にリアルな造形のホルスタインだった。
その隣に、陶器の狸の置物と、大きな木彫りのフクロウ。隅にひどく重たそうな水瓶が置いてあり、それが当たり前のように傘立てとして使われていた。
ニスの輝く天然木の下駄箱の上には、山村の風景を描いた油絵が掛かっている。

正面左側は暗い階段、右側には磨き抜かれた廊下。

「靴、どうする?」

「そのままで」
数田は脱いだ靴を揃えようともせず、僕たちを急き立てて廊下の中ほどの洗面所まで連れて行った。

当然ながら、濡れた3人分の足跡がべったりと廊下についたが、数田は「後で拭くから」と言って意に介さなかった。

「着替え持ってくるから。どちらか先に、シャワー浴びて」
数田は靴下を脱いでバスタオルで足を拭き、どちらも洗濯機に突っ込むと、早足で出て行った。

「マジか……」
僕は大理石の大きな洗面台と、金色の蛇口を見ながら、本当にこんなドラマのような家があるんだなと思った。

洗面所の造形は玄関の印象とは打って変わって洋風だ。デザイン自体はレトロだが、最近リフォームしたのではないかと思われた。

「伊東君、先入ったら」神白が言った。

「神白が先に入ったほうがいいよ」

「いや、ちょっとこれ以上立ってられないんで。少し休んでからにしたい」

「いいから入りなよ。ここで死なれると寝覚めが悪いから」

僕は服を着たままの神白を無理やり風呂場へ押し込んで、戸を閉めた。
どうせ服は濡れているんだから、洗い場で脱げば良いだろう。

結局、神白と僕で順にシャワーを浴び、数田のくれた服に着替え、2階の寝室に通されるまで、ものの30分ほどだったはずだが、ひどく長くだるく感じられた。

雨に濡れたのは余計だった。数田が下山を急かしたわけがよく分かる。もし出発が遅れ、まだ道のりが長く残っているうちに雨に降られていたら、本当に死んでいたかもしれない。

2階は襖でいくつにも仕切られた大きな和室になっていた。

数田は右端の部屋にビィがいることを告げ、僕たちをその隣に入れた。
ポップな水玉柄の布団が2組敷いてあり、心地よいエアコンが掛かっていた。

「休んでろよ。夕飯になったら起こすから」
数田は妙に優しい声音で言うと、襖を閉めていなくなった。

直後、パタパタと階段を降りていく足音が聞こえた。

僕や神白と違って体調万全だということを差し引いても、驚嘆すべき体力だ。あいつこそ不死身のゾンビなんじゃないか。

「伊東君。申し訳ない」
神白は布団の上に座り込んで、そのまま僕に頭を下げた。

土下座しそうな勢いだ。

「いや、なんで」

「本当にごめん。危険な目に合わせた」

「これは3人で決めたことだよ。神白の背負うことじゃない」

「けど、やっぱり年長者の僕に責任があります。そもそも、もっと早く伊東君を家に返すはずだった……僕の力不足で」

「……僕は楽しんでるよ」
そうは言ったものの、思い返してみると何も楽しくなる要素は無かった。
「いいから早く横になりなよ。夕飯までに少しは回復しないと、今度こそ数田にぶっ殺されるよ」

神白は布団に入ったが、あまり眠る気は無さそうで、「しかし立派な家だなあ」と、天井を見上げた。

美しい木目の浮き出た長い板が、整然と並ぶ天井。中央のシーリングライトは消灯しており、部屋の奥に置かれたモダンなスタンドライトが柔らかく部屋を照らしていた。

襖には鈍い金色で、水墨画のようなものが描かれている。

「育ちが良いんだろうとは思ってたけど、予想以上の良家だな」

「君は、なぜ数田には謝らなかったの」
と、僕は聞いた。

「え? ああ、後で謝っとく……」

「だから、なんで。さっき僕に言ったことを、昼間数田に言えば良かったじゃない?」

「だってさ、勘が働くんだよ、それは」神白は寝返りを打って腹ばいになった。「今ここで舐められたら、後々まで下に置かれるんじゃないかって」

「何それ」
僕は思わず笑った。

「伊東君には分からないだろう。君は勉強さえすれば、必ず上へ行けるのだから」

「上って何だよ」

「何だろう。ずっと、自警団を辞めさせられたときのことを思い出していた……よく考えると数田にとって理不尽すぎるよな。今、謝ってこよう」

「今? 今は休んでたら?」

それきり神白が返事をしないので、今度は何の意地を張ってるのかと振り向いたら、神白は枕に顔を沈めて眠っていた。

まともなこと言ってる雰囲気だったが、このぶんだと今までの発言の半分くらいは寝言なのかも知れない。

僕も眠くて仕方なかったが、何とか気力を振り絞って布団を抜け出した。
仕切りになっている襖をそのまま開けても良かったのだが、僕は一応廊下に出て隣の部屋の前へ行き直した。

ノックをしたが返事は無かった。
そっと中を覗くと、こちらの部屋は明るかった。天井のシーリングライトが点いている。それに、隣の部屋は布団しか無いが、こちらには家具が置いてある。お洒落な脚の書き物机と椅子、アジアンテイストのマガジンラック、収納を兼ねたスツール、子供の背丈ほどもある振り子式の置き時計……そうした雑多なインテリアが、考え抜かれた配置ではなく、思いついた順に雑に運び込んだ感じで並んでいた。

ビィは布団の周りに漫画を積み上げて壁を作り、うつ伏せに寝転んで何か熱心に読みふけっていた。

暗い色のジャージを着ている。数田に借りたのだろう。袖と裾がよほど余ったようで、何回も捲り上げていた。

僕に気付くとビィはピョンと跳ね起きて、「遅かったね!」と笑った。

ビィは漫画本の壁をまたぎ、特に躊躇もなく僕に抱きついた。
「待ちくたびれて『ウシジマくん』読み終わっちゃったよ」

「これは何なの……」僕は漫画本の壁を見やった。

「ヨシオに借りた」

「ヨシオ?」

「数田兄弟の、弟がヨシオで、兄がスーちゃん」

「スーちゃん?」

「ヨシオがそう呼んでたよ。だからスが付く名前なんだと思う」

「それだとスグルしか思いつかないけど」

「あ、そうか! お兄ちゃん頭良い」ビィは布団に寝転び直し、身振りで隣に来るように示した。「私さ、スミレしか思い付かなくて、すごいキラキラネームなのかと思ってた」

「いや分からないよ、案外そうかもしれないし」
僕はビィの横に寝転んだ。
目の前に漫画のタイトルがずらりと並ぶ。確かに、その半分くらいは『闇金ウシジマくん』だった。

「お兄ちゃんも読みなよ」
ビィは僕の目の前に無理やり一巻を置いた。
「読んだことある?」

「無いけどだいたいわかるよ……あんまり疲れてるときに読むものじゃないってことは」

「疲れてる脳に追い打ちをかけるのがいいんじゃん」

「そうかね」
僕は仕方なくページを繰り始めたが、最初の客が利息の説明を受けている場面で意識が朦朧としてきた。
人物の輪郭が分からない。文字が意味と繋がらない。

「お兄ちゃん、もう寝るの?」

「うーん」
もう寝るとはどういう意味だろう。

「ねえ、大事な話、あるんだけど……私、中国に行きたいんだよね」

「中国?」
それに『ヒサンの利息』が付くとどうなる?

「お兄ちゃんは一緒に来る? あのね、たぶん来てもつまらないと思うけど、相談無く行くのはやっぱり良くないかと思って」

「相談ね……」
僕は、ビィの言っていることを完璧に理解しているつもりだった。
だが、頭の中で考えたことが、表出する言動に繋がっていかない。
自分が内側と外側に分離してしまったようだった。

ビィを絶対に失いたくない。絶対に。でも、失いたくないと強く願うことと、実際に失わないということの間には何の因果も無いのだ。妹が死んでそれを思い知った。

この宇宙は残酷だ。
僕がこれほど、これほど強く、倦まず弛まず望み願い続けても、運命は平気でそれを踏みにじる。だから時々死んでしまいたくなる。この世から跡形無く消えてしまいたくなる。だって、宇宙はそれでも、僕がどれほど無残に消えても、気付きもしないだろう。僕の思いなど最初から、存在しないのと同じなのだ。ならどうして僕はこんなに苦しまなきゃいけない?

「明日、聞く」
僕はどうにかそれだけ言った。でも、呂律が回っていたか定かではない。

目を閉じた瞬間に上下感覚が消え失せて、僕は真っ暗などこかへ落ちて行った。


3.5章 または 4章へつづく)

3.5章はボーナストラックです。数田兄弟の裏事情などについて触れたもので、本編のストーリー進行との関連が薄いので、スキップ可能です。


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それはともかく「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」は二次創作、ファンアート、絵、歌、朗読、コスプレ、無断転載、再配布、全て自由です。作者を偽らないでくれればあとは何をしてくれてもかまいません。もし面倒なら、特に報告なども不要ですので、皆で可愛がってやってください。

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アラサーのママです。長編小説「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」目次ご覧ください→ https://note.mu/toma_mori/n/n40761080856c SFとかパルプ書きます。

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