[最初から]ゾンビつかいの弟子 4章(後半)

(約12000字 / 読むのにかかる時間 : 約25分)

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こちらは「ゾンビつかいの弟子」本連載ではありません。今後の投稿スケジュールはこちら


四章(承前)


3.

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8/1 13:42
龍一へ

お母さんは、ひなん所にいます

次の帰宅は
8/5
12:30
予定は未定

ひなん者番号100333271
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その下には町内会の集会所になっている多目的ホールの住所と、簡単な道順が書いてあった。

「お兄ちゃんのママらしいね」
冷蔵庫に貼られたメモを見ながら、ビィは言った。
「賢そうだし、お兄ちゃんに似てそう」

家の様子はほとんど変わっていなかった。ただ、ダイニングテーブルの上に、日持ちのする食料品や日用消耗品のストックが大量に積み上がっていた。それぞれ、一部開封されたものもあれば、業務用サイズで箱ごと新品のものもあり、また、何処かからバラバラに掻き集めて空袋に詰めたようなものもあった。いずれも母が少しずつ手に入れては持ち帰ってきたものなのだろう。

僕はメモを見つめて溜息をつきながら、全身の力が抜けていくのを感じた。
母が無事だったことを、神白には伝えておきたかった、と思った。
一瞬、今から追いかけたら間に合わないか、と考えてしまい、僕は自分の執着心にびっくりした。

「ここに行ってみる?」ビィは住所を指して聞いた。

「いや、まず食べよう」
僕は積み上がった食料品の中から、すぐ食べられるものを探した。

乾パン、スナック菓子、チョコレート、シーチキンの缶詰、などと奇妙な組み合わせの食事になったが、僕もビィもかなりの勢いで食べた。空腹を満たせるというだけのことでも、相当の充実感があって、食べているうちにすっかり気持ちが落ち着いてきた。

テレビをつけると、しばらくぶりに見るローカル放送ではグルメバラエティのようなものをやっていた。市内の個人経営らしい食堂が映っていて、アナウンサーと芸人の組み合わせで4人の男女が、ベタなギャグを言い合いながら丼を食べている。画面下部には、この撮影が今年の1月に行われたものであるという断り書きが入っていて、今現在はここで同じような食事を期待できない、ということを暗に念押しされているように感じた。

食べてしばらく休んでから、僕とビィは『避難所』に向かった。

空は少し曇り始めていた。この地域の夏にはありがちな、湿っぽく冷えた風が吹いている。肌寒いような気がするのに、湿気が多すぎて暑苦しい。空気の汚さ、どこかしらから聞こえ続ける車の音にもうんざりした。今までいたB山中の町が静かすぎたのだ。

多目的ホールは確かに避難所になっていた。入口前の駐車場にはスタッフ用と思われる簡易テントが設置され、受付のようなものも置かれていた。しかし、そのテーブルについている若い女は何をするというわけでもなくぼんやりとしており、大抵の人間はその前を素通りして自由に出入りしているようだった。
僕も他の通行人に習って、勝手にホールへ入った。

ホールの3分の2ほどの床が、ブルーシートで覆われていた。そこが寝泊まりできる区画のようだった。避難者は30組ほどだろうか。もともと大きなホールではないので、この程度の人数でも相当ごった返していた。

ブルーシートの上には避難者が各自で持ち込んだと思われる間仕切り、ダンボール、小道具やインテリアの類が並び、かなり本格的に『部屋』を建設している人もいれば、寝袋ひとつで無頓着という人もおり、だいぶ混沌とした眺めだった。

数秒見渡していると、こちらに手を振る母が見つかった。僕はブルーシートの端で靴を脱ぎ、避難者たちがそれぞれ確保している区画の隙間をなんとか抜けながら、そちらへ向かった。

母は「寝袋ひとつ」派のようで、区画には最低限の生活用品しかなかった。あとは、編みかけのマフラーのようなものを膝に置いていた。ふだん手芸をするような母ではないが、ここにいると暇なのだろう。

「よく来たね。おかえり」と、母は言った。

「あ、うん、ただいま」
僕はちょっとぼんやりして答えた。

「何とかなってた? ごめんね、道路の封鎖に巻き込まれちゃって。何度か家に帰ったんだけど、居ないみたいだから、どっかで何とかしてるんだろうなあとは思ってたけど」

「まあ、どっかで何とかしてたよ……」僕は少し笑ってしまった。

「大丈夫? ご飯食べてた?」

「うん、さっき家に着いて、台所のもの、もらったよ」

「ああ、あれね、食べててね。まだまだ増える予定だから」

「父さんと連絡ついてる?」と、僕は聞いた。

「付かない。手紙が届かなくなったね。まあどっかで何とかしてるでしょ、あっちも」

「僕、父さんのところへ行こうとして……それで」僕は急に胸がいっぱいになってしまい、言葉に詰まった。

「うん」母は僕を見つめて頷いた。「ごめん。ありがとう。行ってくれたんだね」

「F県までしか行けなかった。関所が……通れなくて、今までずっとF県にいた」

「お疲れ様」と母は言った。

僕はその場に立ったまま泣いてしまった。

「大変だったでしょう」母は寝袋の上に僕を座らせた。

なにぶん、まったくプライバシーの無い場所なので、僕の涙も1分とは続かなかった。周りの視線を感じる。

「ごめん、余計なことさせちゃったね。ずっとひとりでFにいたの?」

「友達と……」僕はそこでようやく、ビィが付いて来ていないことに気付いた。
ホールに入る直前までは、確かに一緒にいたはずなのだが。

「それならまあ、ひとりぼっちよりはだいぶ良かったわね」と母は言った。「苦労かけちゃったね。疲れたでしょう」

「もうあの家には住めないの?」
と、僕は聞いた。

「あ、そんなことないよ。お母さんはさ、ほら、喘息持ちでしょう。発作が出ちゃって、色々探し回ったんだけど、結局ここにいると一番並ばずに食事と薬がもらえるから、しばらくここにいることにしたの」

どうも、流通の混乱は医薬品にまで及んでいるようだった。病院で処方箋を貰っても調剤薬局でそれが出ない、などということが増えているらしい。
この避難所はたまたま、近くに大病院があることや、避難所開設に関わった医師たちの手回しが早かったことで、避難者たちの常用薬をある程度確保できている。
ただ、原則は家に帰宅できない人のための場所なので、家のある母はいつお咎めを受けて追い出されるか分からない状態らしい。

「うちに帰れない人がそんなにいるの?」

「うん、ほら、Y県から来たっきり、それこそ関所を越えられなかったり、あとは、家に放火されたとかも多いみたい」

相変わらず、そうした嫌がらせ風のテロも収まっていないわけだ。いつまでこんなことが続くのだろう。

とくに理由が無ければ家で休んだほうが良い、と母に説得され、僕は帰宅することにした。

「お金はまだある? 持ってってたよね?」

「あの、2……」

「ここで金額は言わないで」母は口の前に両手の人差し指でバツを作った。「残ってるのね。そしたらそれで何とかしておいて。あと足りなくなる前に補充はするから」

「うん」

「体調良くなったら、お母さんも戻るよ」

「お大事に」

「アリガトー」母は友達みたいな仕草で手を振った。「気をつけてね。戸締りしてね。野菜食べてねー」

「はいはい……」

ビィはホールの外で待っていた。僕が出てくると、片手をあげた。

「一緒に来て良かったのに」

「いや、まあそれは、また今度で」とビィは言った。「お母さん大丈夫だった?」

「喘息の発作が出たって。まあいつものことなんだけど」

「ええ? じゃあこんなゴミゴミしたところに居ない方がいいんじゃないの」

「けど、ここ以外だとなかなか薬が手に入らないって」

「うーん、ひどいなあ……」
ビィは珍しくかなり深刻な顔でそう言った。

「まあ、並ぶのが面倒だってことだと思うけど」

「そうね、でもさ、並ばないと自分の健康が買えないなんて、まったく意味のわからないことだよ」

その後は、台所のストックを消費しながら、何とも言えず落ち着かない日々を過ごした。
市役所へ行ってみると、それなりに待たされはしたが、パスポートは作ることができた。

ビィは市内の中央郵便局まで行って、局留めという形で手紙をやりとりし、中国でのプロジェクトの関係者と連絡をつけていた。とはいえ、いったん手紙を出してから向こうの返事が来るまでに相当なタイムラグがあるので、ほとんどの日は暇そうだった。

母は数日おきに何かを持ち帰ってきて、台所に積み上げ、また避難所へと戻っていった。母が来る時間帯、ビィはたいてい「店を開拓しに」出掛けていて、ふたりを引きあわせる機会が無かった。女の子を泊めていることを恐る恐る報告すると、母はぱっと目を輝かせて、「あら彼女? そりゃいいわね。よろしく言っといてね」と言った。

僕は母に、ここをまた離れるつもりであることを言い出せなかった。

母が無事だった以上は、ここに留まって今後の生活を確保すべきなのかも知れない、とも考えた。

迷っているということを、ビィにも言い出せなかった。それが何よりもつらかった。

何もかも誰かに話して、重荷をすべて下ろしてしまいたかった。
でも、ビィの立場から出てくる言葉と、母の立場から出てくる言葉、今はどちらも聞きたくなかった。言われればますます気持ちが揺れ、まともな決断をできなくなりそうだった。

神白に会って話したい、と思いそうになって、僕はそのたびに強くそれを打ち消した。何かを考えないようにすることは、考え続けるよりもずっと困難だった。

帰宅してから15日目、高校から手紙が来た。どうやら、先月頃バラバラに発送された3通が、遅延しまくった末、まとめてようやく着いたようだった。

1通目は、各大学と連携を取り合って今年度の入試を例年どおり遂行できるように調整しているという連絡だった。
2通目は、任意の課外授業という形で授業を再開するという報せ。
3通目には、初回の課外授業の様子、参加した生徒達からの反響などが記され、合わせて今後の時間割予定表が入っていた。

「時代が変わっても知識の価値は変わりません。伊東君に再び会える日を心待ちにしております。」

時間割表の端に、担任からの書き込みがあった。ふだんこんなことを言ったり書いたりするタイプの担任ではなかったので、僕は思わず笑った。

現在登校していない生徒全員に同じ文言を書き送っているのだろうけど、きちんと手書きで、名前入りで声を掛けてもらえたことが、意外にも嬉しかった。

「いいことあった?」
夕食のレトルトカレーを食べているとき、ビィが食卓の向かいから聞いた。

「そう見える?」

「うん、今日は顔が明るいよ」

そう言われてようやく、自分の気持ちが晴れてきたことを実感した。
「担任から手紙が来た。学校に戻らないかって」

「ふーん。行くの?」
ビィは軽い口調で聞いた。

僕は少し考えてから、「行こうと思う」と言った。

「大学を受けるんだね」

「うん」
僕は短く答えてから、何かを言う必要があると思って、言葉を掻き集めた。
「やっぱり、何年もこのために、今年のために準備してきたし。それなりに意味のあることだと思ってて、だから」

「そうだと思うよ」とビィは言った。

「ごめん」僕は顔を上げてビィを見た。「中国へは行けない。一緒に行こうと思ってたのに……」

「私は思ってなかった」ビィはすごく穏やかに、そう言った。「私はお兄ちゃんは来るべきでないと思ってた。実は、置いて行こうと思ってた。このままずるずると付いてくるようなら、騙し討ちで置き去りにしようと思ってた」

僕は笑ってしまった。「すごいな。ひどいな」

「私にひどいことをさせないでくれて、ありがとう」

「一応さ……なんで僕を置いて行こうと思ったの?」

「来たくなさそうだったから」とビィは言った。「私とは別れたくないけど、中国には行きたくないな、っていう顔をしてたから」

「まあ、そうだね。うん、本当にそうだ」

「それでいいんだよ。別に永久に会えなくなるわけじゃないんだから……。お兄ちゃん、誰かとちょっと遊び終わるたびに、そんなに深刻な顔をしちゃ駄目だよ。会いたかったらまた会えば良くない? 中国はすごく近いよ。思い付いたらすぐに行けるところだよ」

「そうか……」僕は深く溜息をついた。「僕ってそんなにいつも深刻な顔をしてるんだ?」

「してるしてる。すごいしてる。もう明日死ぬのかなって顔してる」

「そんな覚えは、まるで無いんだけどね」

「そうなの? 私ね、いつもお兄ちゃんと遊び終わって帰るとき、あ、もしかして今から私は死ぬのかな? って思うんだよね。なんか、死地に向かう人を送り出すような顔をしてるんだもの」

そうなんだろう、と思った。僕はこの数年ずっと、誰かと離れるとき、これが最後かも知れないと自分に言い聞かせてきた。

これが最後となっても、決して悔いを残さないようにと。

でも、それはビィの立場からすれば、あんまりな八つ当たりでしかない。

「いや、ほんとにごめん」と僕は言った。「ごめんなさい。気分悪かったよね」

「まあ、いいじゃないの。それはさ」とビィは言った。

「……僕は君が好きなんだよ」僕は思い切ってはっきりと言った。「本当に、付き合って欲しいんだ。彼女として」

「ごめんね、彼女にはなれないんだよね」ビィはすぐに答えた。

「分かってる。分かってる……けど、ショウ…」

「その名前も私の名前じゃないんだよね」と、ビィは遮った。「馬場ショウコというのは、私の友達の名前、借りただけなの」

僕はもうそれ以上言葉を思いつかなかった。

「ごめんね。何もできなくて、ごめんね。私はあなたに、深入りしすぎた」

「なんでそんなこと言うんだよ」僕は思わず強い口調で言った。

直後、本当に死にたくなるような自己嫌悪がおそってきた。

「ごめん、僕が言いたいのは……」

「お兄ちゃん、落ち着いて」ビィは穏やかな声のまま、「言ったでしょ? 私には何でもわかるんだよ。全部わかっている。だから落ち着いて」

「なんで彼女になれないの?」
と、僕は聞いた。

「え、すごいこと聞くねー」ビィはにこにこした。「今まで告白して断られたこと、無かった人だね? まあ、見るからにそんな顔だもんね……」

「ああ……わかった。すみません」
カレーが8割がた手付かずだったが、僕はいったん席を立った。

廊下に出る。すっかり夜が来ている。後ろ手に戸を閉めると、真っ暗だ。
でも、明かりが欲しくない。

ほんと、何やってるんだろう。

苦しい。胸が苦しい。
本当に胸が苦しくなるんだな。

僕は恋をしていたのか。

終わってからそれに気づくなんて、本当にバカだ。

初めての恋で、初めてふられてしまった。



4.

しばらくぶりの学校は、すごく窮屈な場所に見えた。
屋内で机に座って半日以上を過ごすという、何年も当たり前のようにしてきた暮らしが、この数ヶ月で僕の身体からすっかり抜け落ちてしまっていた。

出席率は思ったよりも高かった。7割程度は毎日登校してきており、残りも郵便で課題のやりとりをしながら、不定期に登校してくるとのこと。僕のクラスでは、長期間連絡が取れなかったのは僕ひとりで、死んだのではないかとさんざん噂をされていたらしい。

実際、下の学年の英語を受け持っていた教師がひとり、ガソリンスタンドの『事故』で死亡していた。

「日焼けした」と、会う人会う人に言われた。
確かに、考えてみれば最も日の長い時期に、ほとんどの時間を屋外で過ごしていたのだ。

「マジで何してたの?」と、後ろの席の神奈川は結構しつこく聞いた。「何なの、言えないようなことをしてたわけ?」

「じつは、よく知らない人と旅をしてた」僕は仕方なく答えた。

「何それ。なんで? え、ナンパ? 誘拐?」

「いや、単に関所を越えられなくて、こっちに戻れなかった。あと、相手は男だよ」

「え、何それ。すごく犯罪っぽいんですが」

「何を思い浮かべてんの……」

「だって、相手知らない人なんでしょ? 大人?」

「まあ、なんと言うか。大人かな」

「どうやったらそんな事になるんだよ」

「わからん」と僕は言った。「けど、まあ、いろいろ仕方なかった」

「はあ? てか、相手それ絶対、下心あるやろー。お前それ大丈夫だったの? 親は許したの?」

「何、なんの話?」と、山田が割り込んできた。

「あ、めんどくさい奴が来た」僕はふたりに背を向けた。

「なんだよ、え? 心配したんだぞ、伊東。その態度は、なんだ」

「こいつ知らない男とふたりでずっと県外にいたんだってよ」と、神奈川が言った。

「は? 何してんの。ダメじゃん」
山田はまるで常識人のようなことを言った。

「ダメだよなあ」と神奈川は言った。「やっぱりダメだよな」

「お前はそれ、どういうことだか分かってんのか?」山田は僕の前に回り込んで、ニヤニヤしつつも割と真剣に言った。「なんでそんなことになるの。誘われたの?」

「違うんだ。事故なんだよ」僕はうんざりして言った。

「ほんとにさ、大丈夫だったの? おい、俺は本気でお前が心配だぞ」

「うるさいな。いかがわしい妄想をするな」

「妄想じゃないよこれは。おい、お前はひとりにしとくと危なすぎるな。今日から毎日俺と一緒に帰ろう。俺、家までお前を送るぞ。これは本気で言ってるんだ」

「絶対にいやだ……」

「なんでだよ! 知らない男が良くて、俺じゃダメだって言うのか?」

「いちいちムカつく言い方するな」

肝心の勉強のほうは、それなりに自主学習を続けていたおかげか、特に理系科目は何とか追いつけそうだった。

ただ、英語の長文がすっかり読めなくなっていた。明らかに、前より倍近くの時間がかかるようになっている。そもそも、印刷された長い文章に目を凝らしていることが結構な苦痛で、それは日本語の文章についても同じだった。

毎日、帰宅するとぐったりしてしまって、宿題にも手がつかなかった。この状況を立て直せなければ、大学受験はほぼ絶望的だ。やはり、ビィに付いて行ったほうが良かったのだろうか?

そのビィは、僕が学校に行くようになってから3日目、文字通り跡形もなく姿を消した。

予告もなく、置き手紙もなかったので、また何処かに出掛けているんだろうとしか思わず、僕はしばらく気に留めなかった。

しかしビィは夜になっても戻らず、次の朝になっても現われなかった。更に2日が過ぎ、僕は彼女が戻らないことを理解した。

入れ替わりのように、母が避難所から帰宅した。
小袋にぎっしりと医薬品を詰めて持ち帰ってきた。
喘息のための薬に限らず、風邪薬、解熱剤、抗生物質、胃薬、整腸剤、吐き気止め、化膿止めの軟膏や目薬、鎮痛剤入りの湿布……

「これ、全部処方されたの?」
思わず聞くと、
「誰にも言いふらさないでねー」
と返された。

しなければならないことが山積みなのは、ある意味ではありがたかった。勉強をしている間は、他のことを考えずに済んだ。少しずつ、長時間座って文章を読んだりする作業の感覚も戻り、苦を感じなくなった。

「あ、伊東ちょっと来て」
ある朝、教室に入る直前に河野に呼び止められ、と言うより、いきなり腕を掴まれ強引に廊下の隅まで引っ張られた。

この河野という女子の距離感が僕は好きではなくて、いつもは山田に相手をさせている。だから、会話の輪にいることは多いものの、わざわざ面と向かって話したことはほとんど無かった。

「何? どうしたの?」

「伊東、噂をされてるよ」河野は通り掛かる他の生徒に聞かれないように、相当声を低くして言った。

「噂?」

「いなかった間、知らない人と一緒にいたって。あのさ、それ、笑ってもいい話? もし、笑えない話なら、私から言っておくよ?」

「ああ……」
めんどくさいな、と思ってしまった。テロで人死にが出ているような時に、なんの噂をしているんだか。

「『知らない人』と言ったのがいけなかったね。本当は、よく知ってる相手だよ」
言いながら、やはり『よく知っている』という言葉には語弊があるような気がした。
「とにかく、お互いに家も素性も分かってて、僕の親とも会ったことがある。親がちょっと、いろいろ巻き込まれて帰れなかった間、……」

その先の言葉が出なくなった。

「……河野はいい奴だな」
と、僕は無理やり締めくくった。

「そっか、良かった。うん、私っていい奴だよね! 見直したでしょ! あはははは」
河野はぴょんぴょんと飛び跳ねるような足取りで先に教室へ入っていった。

ちょうどその同じ日のことだったが、帰宅途中に奇妙なことが起きた。


僕は高校を通じて発行された『通学用の通行証』を使い、地下鉄通学を再開していた。
ただ、どうしても中心地であるS駅で乗り換えが必要で、これに対しては母も教師達もいい顔はしていなかった。
例の『自販機の独占禁止』や『外食の毒味』を取り仕切っている団体が、いちばん活発に動いているのがこのS駅周辺で、いまや用の無い人はまったく寄り付かない地区になっているらしい。

とはいえ、この地域のすべての鉄道の中心駅となっている場所に『用が無い人』のほうが少ないので、困りものだった。

僕は一応、大人の言いつけを守っていた。つまり、S駅内を歩くときは人と目を合わさず、人の前を横切らず、手に何も持たず、不要な音を立てず、何も買わず、立ち止まらないように注意した。

うっかり目が合ってしまったのは、相手が車椅子だったからかも知れない。その高さに人の顔があると予測していなかった。

いや、それは言い訳だ。

僕が立ち止まってしまったのは、それが神白の顔だったからだ。

金髪に、若干異質な目鼻立ちだから、やはりよく目立つ。髪型は短髪になっていて、だいぶ印象は違うが、見慣れた特徴がはっきりとあった。

しかし、5名の友人に囲まれて話しながら進む神白は、僕を見たはずなのに全く反応しなかった。

後ろの友人が車椅子を押しているのかと思ったが、間近に来るとそれは電動車椅子だとわかった。

他人の空似か、と僕は思った。気付いていて無視しているという感じではない。相手は僕をまったく「知らない」様子だった。
しかし、見間違いで済まされるほど彼の顔は平凡ではない。

「神白」
彼とその一団がついに僕とすれ違おうとした瞬間、僕は思わず呼んでいた。

「はい?」
と、相手は車椅子を止めて、それをぐるっとこちらに向けた。
連れの若者達も急に立ち止まる。

あ、何かをしてしまった、と僕は直感した。
若者達の仕草に、明らかにこちらを威圧して見下すような空気があったからだ。
この場に逃げ道があるかどうか、僕はとっさに考えてしまった。

「呼んだよね?」神白のような男は車椅子の上で身を乗り出した。
斜め下から覗き込まれるような形になった。
柔らかい口調だったが、いい加減な返事は許さないという圧力があった。

僕は、凄まれていることよりも、相手が本当に僕を知らないということに恐怖を覚えた。

記憶喪失? 大怪我をしたのか?
違う、そうではない。
この男の様子は、つい先日大怪我をしたという雰囲気ではない。

彼はずっと前からこうだった。前から、最初から、これが本来の姿。

僕が見たほうが幻だったのか?

「あ、わかった」
神白のような男は急に緊張を解いて、笑い出した。
「君、アキちゃんの知り合いでしょ」

連れの若者達はまだ僕を睨んでおり、僕もまったく力を抜けなかった。

「双子の弟のほうでしょ。君が会ったのは」
と、彼は言った。

「双子」
僕はほとんど声が出せなかった。
神白が弟の話をしたとき、双子と言っただろうか? 記憶にない。それとは別の弟か? いや、「ヤツラに襲われて脊髄を損傷した弟」と……神白は家族のことを、特に兄弟のことをまったく話したがらなかった。僕も聞かなかった。
隠されていたのではなく、話題にあがらなかったのだ。

「今さ、アキちゃんどこにいるか知ってる?」
車椅子の『神白』は聞いた。
「この春から帰ってこないんだよね。君、どこでアキちゃんと会った?」

「春から……」
神白はあの後、帰宅していないのか。
僕はふたつめの衝撃にすっかり動揺してしまった。
「帰ってないんですか? 僕は8月に、だから、あの……」

「おい、取って食おうってわけじゃないよ」神白の弟は神白がよく使っていた猫なで声で言った。「何処かで会ったんなら、聞いとこうと思って。心配してるんだ」

「先月の初めまで一緒にいました」と僕は言った。

「あ、そう。何処にいたの?」

「F県に……それで、このS駅まで帰ってきたところまでは一緒です。そのあと僕は自宅に戻ったので、彼も帰ったものと」

「あららら。その後はひとりで寄り道か。まあいいや、それなら無事ではあるんだろうね」

僕にはまったくそう思えなかった。
しかし相手は「ありがとう」と言って向きを変え、先へ進みだした。

呆然として見送っていると、付き添っていた若者のひとりが、自販機で何か買っている女性に向かって「ひとり一本だよ。ルール守って!」と怒鳴りつけた。

女性はチラッと顔を上げたが、別に驚いた様子もなく、ペットボトルをひとつ持って立ち去った。

どうやら、もうひとりの神白はあちら側に加担しているようだ。

僕たちがC県へ向けて出発したあの日、神白は弟を街の病院まで送りに来たと言っていた。寝たきりの弟を入院させたというような言い方だったが、あの様子では、少なくとも今現在はまったくそんな状態ではない。むしろ、僕が勝手に抱いた「寝たきりで引きこもり」という印象を、神白があえて訂正しなかっただけ、ということなのか。

神白が帰宅していないと知って、重苦しい気掛かりがひとつ増えてしまったが、結局、僕には為すすべがなかった。
自宅以外で神白が行きそうなところなど、見当もつかない。

そして、そのことが端的に、明快に、僕と神白の間柄を示していた。
僕は神白のことを『よく知らない』のだ。

神白が懸念していた台風の季節がやってきた。
よほどの嵐になっても、学校はもう休校しなかった。「来られる生徒は来られる限り来て欲しい」と、教師たちは土日も祝日も校舎を開け、課外授業を組み、自習室を用意した。

するべきことをするしかない、もう後がない。
教室全体にその空気は蔓延して、ついには休み時間に雑談をしている生徒を、他の生徒が「喋るなら廊下で」と追い出すほどになった。もちろん、それはこの進学校の最終学年においては毎年ありがちなことで、単に、今年はその時期が思ったよりも早く来た、というだけなのだが。

ちなみに、追い出されたのは山田と神奈川だったので、喋っていなかった僕も仕方なく付き合いで廊下に出た。

「休み時間くらい、休ませろっつの」神奈川は廊下を行きながらぶつくさ言った。「まだ10月だぜ? 『追い込み』の時期には早いだろ」

「いや、そろそろ追い込みじゃないのか」と、山田が言った。「俺たちが緩すぎるんだよ。言うて『センター』まで100日無いぜ」

「意識高すぎだろ、みんな」

「まあ、そっとしておいてやろうよ。ナーバスになってんだよ。だって、落ちたら来年入試があるかわかんないんだ。医学部狙いとかは死ぬ気だろ、もう」

「勘弁してほしいよなあ。テロなんてさ、来年にしてくれれば良かったのに」

「でも、毎年こんなもんなんじゃないか? 3年生は」と僕は言った。「去年、この時期に3年の廊下を通りかかったら、怖かったよ、足音立てたら睨まれたもの」

「まあいいじゃないか、ここで喋りたいだけ喋ってればさ」山田は神奈川の肩をバンバン叩いた。「俺はいつでも付き合ってやるぜ」

「ごめん、僕はいちいち付き合わないよ、今後はね」と僕は言った。

笑いを取るつもりで言ったのだが、ふたりの友人は妙に真面目な顔で
「うん、そうしたほうがいい」
「お前はそうしたほうがいい」
と口々に言った。

「なんでだよ」

「知ってるんだぞ。お前、2ヶ月もサボったのに、先週の数IIIの抜き打ちで俺よりいい点取ったな」

「それは、その間も勉強してたから……」

「その間もダレずに勉強が続く時点で、お前はもう持ってるんだよ」山田は言った。「能力ある者は、真面目にやらなきゃいかん」

「そうだ、真面目にやれ」と神奈川も神妙ぶって言った。「知らない男と旅行してる場合じゃないぞ」

「だから知らない人じゃないって……くだらない噂を流したのはお前か」

「噂なんかしてないよ! みんなで伊東を心配していたんであって」

「大丈夫。僕は怒っていないよ。でも後で死んでくれる?」

「ひどくないか? 俺が何をしたって言うんだ」

「神奈川、お前はわかってない」山田が大袈裟に神奈川の腕をつかんで諭した。「そいつは伊東の彼氏なんだよ。だからいじっちゃ駄目なんだって」

「うわっ、そうか。そりゃ失礼した」

「お前らふざけんな。今どき笑えないだろ。マジでやめろ」

その月の終わりに、突然インターネットが復旧した。

政府は他国からの『生体ロボット』の侵入を認め、その全てを捕獲してプログラム内容を初期化するという『鎮圧作戦』が完了したことを発表した。

インターネットの停止については「閣僚と官僚の間の連絡の行き違いによるものだった」との弁明がなされた。

この強権的な対応には相当の批判が巻き起こったが、結局のところ、年末に行われた総選挙で、再び同じ政党が勝利した。

この夏にいつの間にか法改正があって、18歳の僕にも投票権が与えられたが、白紙で出して帰宅した。
大事な時期に風邪をもらうのが嫌で、投票所では息を止めていた。


五章につづく)


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それはともかく「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」は二次創作、ファンアート、絵、歌、朗読、コスプレ、無断転載、再配布、全て自由です。作者を偽らないでくれればあとは何をしてくれてもかまいません。もし面倒なら、特に報告なども不要ですので、皆で可愛がってやってください。

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アラサーのママです。長編小説「ゾンビつかいの弟子」「怪獣をつかう者」目次ご覧ください→ https://note.mu/toma_mori/n/n40761080856c SFとかパルプ書きます。

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