[最初から]ゾンビつかいの弟子 7章(前半)

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第三部 ゾンビつかいの弟子篇


七章


1.

『関所』が復活した。

合わせてネットもまた止まるのではないかと、相当危惧されたが、ひとまずネットはまだ生きていた。
しかし、「検閲されている」というデマが繰り返し様々な形で拡散し、主要なSNSはどこも異様な熱気をはらんで荒れ続けた。

再プログラミングされた生体ロボットの働きぶりも報じられた。
今回の『山狩り』のように、危険な場所で単純な業務をおこなう、というような仕事とは確かに相性が良かった。脱走したロボットの8割ほどは間もなく捕獲された。

残り2割が問題だった。

その週の半ば、M県K町の収容センターから脱走した生体ロボットが、東京駅前で捕獲されたのだ。関所が再開される数時間前、他の乗客に混じって新幹線の改札内に入っているのが、防犯カメラの映像に記録されていた。

しかも、捕獲されたきっかけは、路上で通行人を襲ったことだった。通り魔が暴れている、という通報を受けて出動した警官に捕獲され、その時点では『人間の容疑者』として扱われていた。
この容疑者が生体ロボットだと判明したのは、拘留されて丸一日が過ぎてからだった。

取調室で、『爆発』した。

関わった現場の人間たちは異口同音に「わかるはずがない」と訴えた。
彼は不自然なく歩き、身だしなみも当たり障りなく、路上で暴れたという以外に変わった点は見られなかった。捕まって以降は無気力な態度で、一言も喋らず、文字も書かなかったが、問いかけに対して頷いたり、目線を使って意思表示をしたりと、それなりにコミュニケーションは成立していたという。
「人間の容疑者のほうがもっとコミュニケーションしづらい場合がある」と、ある関係者は言った。

いくつかの録画映像が複数の専門家によって分析され、「このロボットは言葉を理解しているわけではない」との結論がくだされた。状況に合わせて機械的に頷いたり視線を向けたりと、「応対しているふり」を保っているだけであり、いわば「オウム返し」をしているに過ぎない。コミュニケーションが取れているという錯覚は、受け止める側の想像力の中で作られた幻想に過ぎないと。

この専門家らの分析が妥当であろうとなかろうと、次に生じる問題は明白だった。

4日後、都内の公園でひとりの人間が撲殺された。その場で現行犯逮捕された犯人は、「相手が生体ロボットだと思った」と主張したのだった。


とはいえ、僕にとっての一大事は、社会問題よりも日々の様々なノルマだった。

その日、僕が行かなければならない場所は、谷中准教授室だった。
例の「ゾンビを喋らせる」先生だが、学部生へのサポート体制に関わる何らかの役職についているらしい。今後の単位取得スケジュールについて谷中先生と面談をするようにと、学科の事務員から一方的に通知をされた。

正直、ゾンビに遭うよりも気が進まなかった。

指定された時間の5分前に行くと、ちょうど谷中先生は扉を開け、一瞬、僕には目もくれず廊下に出ようとした。
それから、僕の視線を感じたのか、ぴたっと立ち止まった。

「あっ……」谷中先生は僕を指差そうとするような、変な位置で右手を止め、考え込んだ。「もしかして、俺にアポ?」

「4時半に来るようにと。後期の履修スケジュールのことで面談を……」

「ああ! 忘れてた。1年生。伊東君ね」谷中先生は勢いよく言った。「ごめん。10分待って。部屋に入ってて。適当にくつろいでていいよ」
准教授は無茶苦茶なことを言って、廊下を大股で去っていった。

僕は少し迷ったが、結局、准教授室に入ってみた。

正面が巨大なデスクで、パソコンのディスプレイが4枚、横に並んでいた。飲みかけのコーヒーが入ったマグカップが、その端に置いてある。

両脇には、鉄のパイプ棚。そこに、本がぎっしりと、乱雑に詰め込まれている。
プログラミングやIT技術に関するタイトルが多いように見えるが、その他に、大学レベルの数学、物理学の教科書や、学会誌と思われる雑誌の束、そして自家製本された学生の卒業論文、修士論文、博士論文。背表紙に日付と略語だけが殴り書きされた巨大なファイルバインダー。英語タイトルのハードカバーも相当並んでいた。

地震が来たら、知識の下敷きになって死にそうだ。

谷中先生は10分と経たずに戻って来た。
「なんだ、くつろいでろと言ったじゃないか」

「くつろいでいました」と、僕は言った。

「座ってて良かったのに」谷中先生は部屋の隅に押し込んであったキャスター付の椅子を引っ張ってきて、僕に勧めた。

先生自身は、デスクの向こうから自分の椅子を引っ張ってきて、僕と膝を突き合わせそうなほどの位置に陣取った。
「ごめんね、忘れてたわ。後期の履修スケジュールって、あれでしょ? 履修数の上限引き上げ、だっけ。何、早期卒業するの?」

「いえ……よく分からなくて。とにかく、事務から面談をしろと言われて」

「ああ。なんか最近、うるさくなったのかな。昔はそんなの勝手にしろって感じだったんだが」
谷中先生は眼鏡の向こうから、油断なさそうな、値踏みするような目を僕に向けた。
「たぶん、前期の暫定評価が高かったんじゃないかな? 君、俺の授業も取ってたね。確かに良かったよ、君」

「はあ」

「うちの学科では優秀な学生には早期卒業の制度を設けている。修士と合わせて通常6年かかるところを、4年半で卒業させる。そのために、半期の間に履修できるコマ数の上限を、他の学生よりも引き上げるわけだ。これは成績がある程度以上の学生だけに認められる。君はその『ある程度』以上に掛かった、というわけだ」

「……そうですか」

「とは言っても、毎年50人くらいはそういう学生がいるけど、実際に早期卒業をするのは1学年に1人いるかどうか、くらいだ。けっこうキツイからね。研究を、つまり、卒論を他の人よりも早く仕上げなきゃならないから。どう、興味ある?」

「いえ……よく分かりません。4年半で卒業って、秋に卒業……修了、ですか」

「そうだね。まあ、卒業式は3月だから、半年空くね」

「その半年は……」

「まあ、あんまり関係ないよ。暇なら、引き続きドク論に取り掛かってもらうだけだから」

「ドク論?」

「ドクター論文、つまり、博士論文。博士課程は3年と言われてるが、別に素晴らしいドク論が出来上がればいつでも上がってもらって構わないんだよ。結果がすべて」

「……はい」

「そう気構えることはないよ」谷中先生は笑った。「一応、その制度があるということ、覚えておいて……実際に早期卒業する人は少ない。普通にやったほうが楽だよ。1年や2年、早く出たからって将来に何の影響も無いしな。これは本当だよ。飛び級をしても、逆に浪人したり留年したりで遅れても、結局は変わりないんだ。特にアカデミックの世界は、実績がすべてだからね。要は何をアウトプットしてきたか、であって、表面上の経歴など何ほどのものでもない。ましてや、年齢なんてね。何歳で何ができてたか、なんて、子供じゃあるまいし。そうだろう?」

よく喋る人だな、と僕は思った。講義のときもそうなのだが、ずっと喋り続けている。しかも、それなりに聞きやすく、面白い。

だから、すごく怖いのだ。

「1、2年生は所属研究室が無いからなあ。どうしても我々の目が届かないんだ。それで、事務からも最近うるさく言われる。やれ面談だ、ヒアリングだ、サポートだと……昔は、完全に放置だったんだ。この履修上限引き上げの報せも、掲示板に学籍番号を貼るだけ。早期卒業について、知りたきゃ自分で問い合わせてこい、という、完全な殿様商売だった。しかし今どきはそういうのも問題視されてね。お前たち、ちゃんと、学生の世話をしてるのか、って。してねえよ。って、こっちは言いたいんだが。そうも行かない。誰かが鬱病で退学したりすると、最近はそれは我々の責任なんだ。放置してただろう、ちゃんと見とかないからそうなる、というわけだ。けどさ、そもそも学問することに向いてる人と向いてない人がいるんだから、向いてない人を無理に引き留めるのも酷な話だと、俺は思うけどね」

「……僕はつまり、早期卒業をするかどうかを、決めて、返事をすれば良いのでしょうか」

「いや、本当に、気構えないでくれ」谷中先生は苦笑した。「この面談は形式的なものなんだ。一応何かのサポートはしている、という、ポーズだよ、ポーズ。早期卒業は、まあ、したくなれば連絡をくれ。条件についてはシラバスにも書いてあるし、よく分からなければ事務でも教えてくれる、もちろん俺に連絡をくれれば相談に乗るよ。一応、潰しがきくように、多めに履修して単位を先取りしとく、というのも有りかも知れないな。ただ、欲張りすぎて留年しないように。もし欲張りすぎて留年しそうになったら、それも早めに相談に来て。俺で良ければ、だけど。俺でなくても良い。誰か他の先生のほうが相談しやすければ、その先生に相談してくれれば。誰でもいいんだ。ただ、一個も窓口が無い状態だと君も不便だろうし、何かあった時に外聞が悪い。相談口が見つからなければ、とりあえず俺のところに来てみてくれよ。

……すごく嫌そうだね」
谷中先生は僕の目を覗き込んだ。

笑っている。

悪い人には、まったく見えなかった。
僕にはそれを見抜く『目』が、無いのだろう。

「わかるよ。君の言いたいことはね」谷中先生は僕の目を悠然と見据えて、柔らかく言った。「滅茶苦茶、俺を警戒しているなあ。まあ、無理もない」

「学生たちが、言ってます、谷中先生は……」僕は目を逸らそうとしたが、失敗した。「魂を売った、と」

「魂?」谷中先生はまったく動じなかった。おそらく、初めて言われたわけではないのだろう。「俺の魂に売るほどの価値があるのかね? 君のような汚れを知らない若者の魂なら、引く手あまたかも知れないが」

僕は黙っていた。

「わかってる」谷中先生は言った。「ロボットのことね。それが正常な反応だ。君が正しい。俺はね、あのロボットのことで、何の抵抗もなく話に食いついてくる奴のことは信用できん。君はものすごく嫌そうな顔をしていた。覚えてるよ。ビデオを見せたときね。君は途中で逃げただろう」

「すみません」

「いや、それでいいんだ。君が正しい。それに賢いな。ああ、そうだ、君、情報基礎のほうでも俺のクラスにいたね」

「え?」

『情報基礎』は、パソコンを使った演習形式の講義だった。主に、昔は研究者の間で主流だったUNIX系のOSに慣れることを目的としたもので、その他にプログラミングの基礎に触れる時間が数回あったはずだ。2週間ごとに担当の教官が入れ替わる講義なので、そのうちのどこかで谷中先生が入っていたということか。

「君の書いたコード、センス良かったよ」谷中先生は言った。「俺、けっこうああいうの見てるんだよ。他人の書いたコードは面白いよ。君はfor文を抜けるのにreturnを使っていた。あれは良い」

「ああ……」僕はその演習を思い出したが、担当教官が谷中先生だったという記憶はまったく無かった。画面のほうに夢中だったのだろう。「あれは、breakを知らなかっただけです」

「いや、すごく良い。returnが何を意味するのか、つまり、関数とは何なのか、ということを、いくら言ってもわからない奴が多いんだ。ありゃ、もうね、センスだよ。生まれつきの才能だと思うよ。できるやつは最初からできる。事前にフローなんか組まないだろ? 頭の中に、最初からあるんだ。だからパソコンの前に座れば、そのまま直接書ける。
ダメな奴は、どう教えたってダメな。勉強ができるかどうかとは、また違う才能だ。ものすごく賢い奴がアホみたいな単純なプログラムを書けなくて苦しんでたりすると、俺は横から、え、何がそんなに難しいの? って言ってしまいそうになる。わからない理由が、わからない。言語だからな。喋れる人には、喋れない理由がわからん。そんなの考えなくたって自然に出てくるものなんだから」

背中に、どっと汗が吹き出てくるのを感じた。

何を言おうとしている?

「君は、向いているのかも知れないよ」
谷中先生はわずかに首を傾げて、力強い目で僕をじっと見た。
「自分が何をしたいか、ということと同じくらい、自分が何をできるのか、ということもきちんと意識したほうが良い。君のように優秀な人間なら特にね。君が当たり前のようにできていることが、必ずしも他の人にもできるとは限らないんだ」

去年の記憶が急激に蘇ってくる。

ビィのしていたこと、ハッカソン、村を使った実験、『爆発』、血、それに、悪意を持って送り込まれた生体ロボットを、ビィが『隠しコマンド』で撃退したこと……、

あのとき、僕には何の知識もなかった。
今もない。

しかし、もしこの後、あのときのビィと同じくらい、または、さらに深く、それを理解して触れることができるのだとしたら。

けれども、同時に、僕は神白の言った「冒涜」という言葉と、彼の打ち明けた苦しみについて考えていた。

谷中先生はじっと僕の顔色を読んでいたが、急に立ち上がって、デスクの向こう側へ行った。
しばらく何かをごそごそと動かした後、谷中先生はガムテープで封をされた大型の封筒を持って戻ってきた。

「これは一部余ったんだ。君に貸すよ。興味があるなら、読んでみるといい」
封筒は分厚く、重かった。A4サイズの紙が、少なくとも100枚は詰め込まれているようだった。
「ロボットの中に書いてあったコードの分析資料だ。もともと仕込まれていたコードと、大量のパラメータだ。こんなにあるけど、これでもまだ、一部分だけ。何をどうやって使うのかは、これを作った奴にしかわからない。今、日本中の賢い人たちが、ここに書いてあることを一行一行読み取って、それが何を意味するのかを、知ろうとしている。もちろん、単純に、新しいコードを追加して動かす、という方法もある。動かしたいだけならね。ただ、俺たちが知りたいのは相手がどんな技術を持ってるかということなんだ。だから、相手が書いたものを読んで知る必要がある。ひとつひとつのパラメータの意味を知るためには、コードの一部を書き換えて、テストする必要がある。動かしてみることで、初めてその働きが、仕組みが知れるわけだ。そして、仕組みを知ることが、対策を打つための、身を守るための知識となる」

「単に破壊してしまうだけでは駄目なんですか」と、僕は聞いた。

「俺もその方が良いと思うよ」谷中先生はすぐに答えた。「だがね、人間の……つまり、大人の、欲望というのは果てしがない。連中がなぜアレを収容センターに入れてるかわかるか? 偶然手に入れた強力な『兵器』を、手放したくないからだ。それが理由だよ。そして、この国がこの兵器を当分手元に置こうという決断をしたのなら、俺はそれを間近で見届けていたい。それは、身を守るためにだ。背を向けていたら、俺の知らないところでどんな悪用をされるかわかったもんじゃない。違うか? 俺はね、他の学者を信用できないわけだよ。それこそ、金と地位さえ与えれば簡単に魂を売るような奴だって沢山いる。そんな奴らに好き勝手させないためにこそ、俺と向山先生はこれを見届けようと思ってるんだ」

僕は返事をせず、渡された重たい封筒を見下ろした。

「それ、自分の部屋以外では開けるなよ」谷中先生は言った。「そして、読み終わったらまたここに返しに来て。コピー取っちゃ駄目だよ。スキャンも駄目。PCに打ち込むのも駄目。読むだけ。それは気をつけて。もし、万が一紛失したら……」

「どうなるんですか?」僕は顔をしかめそうになった。

谷中先生は、短く溜息をつくように笑った。「紛失したら、すぐに俺に言うんだ。……大丈夫。守ってやるから」

「なぜこれを僕に渡すんですか」

「知りたそうだったから。読んで、つまらなかったら、すぐ返しに来て。面白かったら……まあ、また俺と話そう。どっちにしろ返してくれよ。燃えるゴミに出すなよ。シュレッダーも駄目だ。いいね」

まだ、僕は決めていない。
これに関わるか、背を向けるか。

だから、この封筒を突き返さなければいけないはずだ。

興味本位で持ち帰るべきものではないし、見てから決めようなどと甘い態度を取っていれば、きっと引きずりこまれてしまう。
僕は勧誘されている。
今、この瞬間に、谷中先生に……引きずりこまれようとしている。

「やっぱりやめとく?」谷中先生は余裕たっぷりに、僕が引き返すべき道を示した。

「………」
違う、もう、完了しているのだ。僕はもう囚われている。僕はここに来るべきではなかったのだ。最初から、聞く耳を持ってはいけなかったのだ。

「……谷中先生は」僕は封筒をしっかりと持ったまま言った。「苦しいことがありますか? この研究をしていて」

「うーん、研究は全部苦しいものだよ。この研究だから特に、というのは無いな。まあ、しょっちゅう怖い夢を見るようになったくらいで」

「怖い夢?」

「なんかなあ。襲われたり、殺されたり、ロボットに逃げられたり、自分がロボットになって逃げてたりな。あと、一番多いのは、話しかけられる夢。そういう夢が一番怖いんだよな。何を話しかけられても、ただただ怖い」

「でも、それは、先生の実験が成功した夢、ですよね」

「成功、というか、まあ、何らかの結果が出た夢ではあるな。確かに」

「それでも怖いんですか?」

「それでも怖いよ、もちろん。そういう夢を見た朝は、さすがに朝めしが喉を通らん。噛んでも噛んでも、飲み込めないんだ。どうしてもな」
谷中先生は、なんでもないことのようにそう言った。
「けど、そんなことはどうだっていいんだよ。世の中が、これ以上悪くなるのを食い止めるためならね」



2.

僕が向山研究室に定期的に出入りするようになったことは、割合早く学年中に知られることとなった。

結果、入学当初から遠回しに視線を送り続けてきていた数名の女子学生が、ぴたりと全員近づいて来なくなった。
現金なものだ。

そして、そのことと全く無関係とは思えない出来事として、講義の合間に話しかけてくる男子学生の数は少しだけ増えた。

中でも、波崎という男の変わり身は極端で、周りの他の学生からはっきりと「手のひら返し」との指摘を受けるほどだった。
確かに、こういう状況になる以前、僕はこの男からほんの少しの笑顔も向けられたことが無かった。近くの席にいた者同士で昼食を一緒に、というような流れになると、波崎は「俺はこいつらと行くから」と、わざわざ僕を睨みつけながら言って、2、3名を引き連れていなくなったりした。また別な講義前、隣の空席に座って良いかどうか尋ねたら、「あっちが空いてるよ」と離れた場所の空席を示されたり。

それが最近は、自分からぴったりと僕の隣に座って、暇さえあれば話しかけてくる。

「お前、もうちょっとそっちに座ってくれない」と僕は言った。

大講義室の机は横長になっていて、椅子もベンチのような形だ。混雑しているときは、詰めれば5人は入ることができ、そうでなければ普段は、2、3人ずつで距離を取って座ることが多い。

波崎のように、互いの足が触れるほどぴったりと隣にくる必要は、全くない。

「いや、なんで?」波崎は引かなかった。「俺がここにいちゃ困るの? ノート見せてやるよ」

「暑苦しい」

「遠慮するなよ。先週のノート見る? 途中寝ちゃったけど」波崎はルーズリーフをめくった。

「僕は全部起きてたから」

「マジで? じゃあ写させてよ。ほら、ほら、ここさ。寝ちゃったから、ノート飛んでる。ここ、お前取った?」

「お前ほんとうにウザいなあ」と、僕は笑った。

「あ」波崎はわざとらしく、まじまじと僕を見つめて、「今の、何それ、ツンデレ?」

「は?」

「ときどき無茶苦茶、いい笑顔するよな、伊東。いい笑顔で毒舌だよな」

「あ、そう。論評をどうも」

「冷たい!」

「涼しくていいだろう」

波崎がベッタリと付くようになったことで、波崎のお仲間の数名もよく、近くの席に来るようになった。

彼らの間で僕のあだ名は、「お弟子さん」だった。

先週、飲みに誘われたが、断わってしまった。どう考えても、親交を深めるためというより、「いじる」ために距離を詰められてる感じで、いまひとつ信用できない。

「昨日も師匠のところ行ってたでしょ」波崎は言った。

「ああ。なに。僕って逐一、監視されてるの?」

「何をしてるの? そろそろ教えてくれ。俺とお前の仲だろう?」

「『ゼミ』だよ。別にまだ席は空いてたよ。気になるなら波崎も参加すれば?」

「え、なに、そんなオープンなの? 誰でも参加できるの?」

「したいって言えばわりと歓迎されるんじゃないかな」

「そんな馬鹿な」

実際、始めてみると実に単調な作業だった。
資料を渡され、自宅で読み込み、指定された日時に向山研究室に集まる。向山教授と谷中准教授の他に、その研究室に所属する学生や研究員など、毎回総勢7、8名ほどが集まって、『ゼミ』をおこなった。

ほとんどの時間は、もっぱら『読み合わせ』と呼ばれるような作業だ。資料から自分が読み取ったことが正しいかどうか、読み間違いをしていないか、という答え合わせ、互いの解釈のすり合わせをおこなう。

それから教授と准教授と、その次に経歴が長いと見えるポスドクの研究員が、パラメータを特定するための改変コードについて打ち合わせるのだが、僕を含めた若い学生たちにとっては、ほとんど内容を聞き取ることもできないほど高度な議論だった。はっきり言って、外国語で話されているのと変わりない。

つまらない、と思えば次回から来なければ良いだけのことで、実際、僕のように勧誘されて入ってきても、その後定着せずに去ってしまう学生が多いようだ。だから、谷中先生が躍起になって勧誘を繰り返すのも、無理もないことだった。居着いてくれる者が少ないぶん、呼び込む人数を増やすしかないわけだ。

通常、他の研究室であれば、学部3年生が毎年一定数は補充されるようになっている。学部生は3年になったときに、卒業研究をおこなう研究室を選択しなければならない。その際、各研究室は募集人数の上限と下限を提示し、人気の研究室であぶれてしまった学生を、不人気の研究室が引き受ける形で収まる。

しかし、向山研究室はこのプロジェクトへの参加を決めた今年以降、今後は下限を提示しない予定でいる。つまり、向山研究室への配属を自発的に望んだ学生以外は受け入れないという方針だ。合わせて、去年までの段階で既に配属されていた何名かの学生も、本人の希望を聞き取り、緊急的に他の研究室に再配属させたりしたらしい。

扱っているモノがモノだから、ということなのだが。

結果、谷中先生は日々、個人的な勧誘活動に余念がないわけだった。

「なぜ、隠すんだ」波崎は1日に5回くらいはそう言っている。

「隠してないよ。見に来ればいいのに」と、僕も同じ返答を繰り返した。

「いやー、だって、ちょっと無理だろう。呼ばれてない1年坊主が入れるような場所じゃないだろ? 伊東が正直に話してくれればいいだけなんだよ」

「正直に話してるって。あと、別に僕も呼ばれてないよ。谷中先生と、たまたま面談しなきゃいけなかったから、そのとき、興味があるなら来れば? って言われただけで」

「違う、そんなんじゃないはずだ。違うだろ。お前が優秀だからだ」

「違うと思うよ……」


事実、それはまったくの誤解だった。谷中先生はあの日、いかにも僕に特別の才能があるような言い方で強引に勧誘したが、それが例によってハッタリだったことは、僕自身が間も無くはっきりと思い知ることになった。

『ゼミ』に集まる学生たちは僕よりもはるかに優秀で、プログラム言語への習熟度も桁違いな人間ばかりだった。確かに僕が最年少ではあったが、かと言って他の先輩たちと5歳も離れているわけではない。あと数年程度で彼らと同じくらい賢くなれるのかと考えたとき、僕にはそれはまったく不可能だと認めざるを得なかった。

自分に才能など無い。
こんなことを、引き受ける資格が無い。

僕の予想では、勧誘されて来た学生の多くがその後去るのは、生体ロボットに恐れをなすからではなく、自分の能力が低すぎることを突き付けられ、絶望するからだ。

実のところ、僕が最近見る悪夢と言えばゾンビではなく、ゼミで谷中先生からの質問に答えられず恥をかくとか、なんの準備もしてないのに大勢の前で何か発表をさせられるとか、単純に、「お前なんで渡した資料を読み終えてないの? だったら来るなよ」と部屋を追い出される夢とかだった。

現実には、資料を読んで来なければ話について行けずに惨めな思いをするだけであり、あえて怒られることすら無いのだったが。つまり、怒られるという夢は恐怖というよりも、願望を反映したものだった。

講義の開始時刻を過ぎていたが、担当教官が遅刻していた。こういうのは、困るのだ。講義が始まらない限り、波崎のお喋りが止まらない。

波崎のお仲間が2名、遅れて後ろの席にやってきて、「あ、お弟子さんだ」「波崎、お弟子さんが嫌がってるぞ」と言った。

これ、放置しておくと面倒になるやつなんだろうか。僕はどう対処すべきか、迷った。

正直、高校生だったときよりも、大学に入ってからのほうが、同級生の間での力関係の取り合いは殺伐としている。3年生に上がったとき、希望の研究室に入れるかどうかは、それまでの成績次第だ。だから、既に戦いは始まっているのだろう。代返をし合うとか過去問をシェアするとか、そういった協力関係は惜しまないようにしつつ、成績だけは自分が上位をかっさらうようにと。人気の研究室に入れる人数は限られているから、そこは絶対評価ではなく、相対評価をこそ勝ち取らなければならない。

あと、もっとシビアなのは恋愛沙汰だった。

学科の性格上、女子学生は30人に1人という割合で、彼女たちは並大抵の男子には見向きもしない。
そして、他の学科、他の学部を見渡しても、この大学にはそもそも女子学生が少なかった。
看護学科など特殊なところ以外は、軒並み女性不足だ。

学問をする場所としてはともかく、二十歳前後の落ち着かない男子どもが青春を過ごす環境としては、最悪だ。

僕は身体をひねって、後ろの席のふたりに向き直った。
「あのね、おふたりさん。裏でどう呼ぼうと構わないけど、僕が目の前にいる間は、『伊東』と呼んでもらえますかね」

「ふん」と片方は本当に鼻で笑った。

「ごめんね」ともう片方はあっさり言った。「ごめんごめん」

「波崎に言っても無駄みたいだからな」と、僕は少し茶化すように言って引いてみた。

「あ、なんだよ、俺そんなに言ってないだろ」波崎は笑いながら言ったが、少し不安そうだった。「怒ったの? 怒ってる? 怒ったね?」

波崎以外のふたりの反応は鈍かった。ふたりとも浪人組で、年齢的にはひとつかふたつ上になる。こういう場合でも現在の学年が一緒なら「目上」とは扱わないのがルールだが、それを彼らがまったく気にしていない、などとは、僕も思っていない。

僕は急いで教室を見渡し、いつも代返を頼んでいる大川と黒田のいる席に、まだ余裕があるのを確認した。
僕は机に広げていたものをリュックに詰めながら立ち上がった。

「え、なに?」と波崎が言った。

「また後でな」僕はこれ以上感じが悪くならないように、波崎に対して意識して笑顔を向け、手も振って、急いで席を移動した。
後ろで残りのふたりが何かぶつぶつと言ったようだったが、残念ながら聞き取れなかった。

大川と黒田は、僕が長椅子の端に黙って座ると、「あ、久しぶり」「おつかれー」と言った。

実際にはまったく久しぶりではないし、おつかれと言われるような筋合いもないのだが。

「また、つきまとわれてたね」大川が波崎たちの席を見やって言った。

「気づいてたんなら、助けてよ」

「いや、満更でもないのかと思って」

「なんだよ、それ」

「最近めちゃめちゃ伊東にご執心だよな」と、黒田が言った。「なんなのあいつ。気持ちわりい」

「あいつは女が出来たんだよ」と大川は実に冷たい口調で言った。「人生初彼女が出来て、イキりまくってんの。バカだよなマジで」

「だったら彼女のとこに行けばいいじゃん。なんで伊東に絡んでるの」

「だからさ、ほんとは伊東が本命なんだよ」大川はけっこう本気な顔で言った。「本命の前で、見せびらかすわけよ」

「頭おかしいんじゃね?」

「そんな話はしてなかったけどな」と、僕は言った。

「今日、これ休講だよな」大川は黒板脇の時計を見た。既に開始時刻を10分回っていた。

「マジか。またか。この先生やる気ないよなー」黒田はノートを片付け始めた。「せめて休講の通知を事前に出せっての。こっちに足運ばせるんじゃねえよ」

「急にお腹痛くなるんだろ、たぶん」と大川。

「不登校の小学生か」

「まあ実際そんなもんなんじゃない?」と僕は言った。「まともに働ける大人だったら、大学に残らないだろう」

「確かにな。社会不適合者の集まりだよ、ほんと」

講義室に院生と思われる若者が入ってきて、無言でチョークを取り、黒板いっぱいに大きく「キューコー」と書いた。
教室全体から「ああ」と、溜息半分、喜び半分のような声が上がり、さっそく帰り支度が始まる。待ち構えていたように素早く出て行く者も数名いた。

「お昼にするかあ」大川が嬉しそうに鞄を背負った。

「まだ早過ぎないか?」僕は改めて時計を見た。11時前。

「いや、俺は朝抜いてるから、もう食べれる」

「じゃ付き合うよ」と黒田は言った。

「僕は、漫画読んでくる」僕はふたりに軽く手をあげた。

「またか。好きだなあ」

「今は何を読んでるの?」大川が、期待しない顔で聞いた。

「ワンピース」と僕は言った。

「ぜってえ、嘘だよな」「ああ、嘘だよ」大川と黒田は顔を寄せ合って、ヒソヒソ話のポーズを取った。
「伊東、お前、ワンピースの主人公が誰だか言えるのか?」

「ルフィだろう」

「はい、ダメー。そこでボケれない時点で、もうダメー」黒田の評価は手厳しかった。

「いいよ、行ってこいよ」と、大川は手を振った。「伊東、あんま無理すんなよ」

「え、何が?」

「いいよ。気にすんな。また後でな」

「ああ、うん、また後で」
波崎が近付いてくる様子が見えたので、僕は言い返すのをやめ、急いで背を向けて講義室を出た。

波崎を撒くために少し遠回りをした。

清水先輩は今日もサークル室にいた。

「お、伊東君」清水先輩は僕を見ると笑顔になった。「待ってたぜ。あれ、サボりか?」

「休講です。小坂野先生。これで3回目」

「ああ、その先生、半分やればいいほうだよ。前に、前期だけで6回休んだら、学長だか学科長からさすがに呼ばれたらしい」

「やっぱり不登校なんですか」

「そう。しかし休ませてやりゃいいじゃんね。どうせ講義してもらったって分かんねえし、電磁気なんて」

「まあ、そうですね」

僕が「お弟子さん」になった話を、同じ学科の清水先輩が知らないはずはなかったが、先輩はそれについて一言も聞いてこなかった。

僕にはそれはこの上なくありがたいことで、この場所を奪われない限りは、まだもう少し、やっていられるのだろうと感じる。

「そういえば、この部室は『ワンピース』って置いてありました?」

「そんなチャラいものはない」清水先輩は背中側の本棚を振り返った。

「チャラい、ですか」

「いや、新しいからな。新しいのを誰も補充しないからな。『ドラゴンボール』は、途中まではあったよ」

「いつ見ても、前時代的な本棚ですよね……」

「それよりさ、これ見た?」清水先輩は奥の小テーブルに設置されている共用パソコンを示し、僕を手招きした。

動画サイトが表示されている。

「なんかまたくだらないもの見つけたんですか?」

「ひどい。口が悪過ぎない? 伊東君」

「え、くだらなくない動画ですか? そんなの見たくないんですが」

「いや、正真正銘、すごくくだらないよ。いや、これは絶対見ろよ。くだらなさは俺が保証する」

「そんなこと保証されても」

僕と清水先輩はそれから、昼休みが終わる時刻までずっと動画を見ていた。


七章 後半につづく)


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それはともかく「ゾンビつかいの弟子」は二次創作、ファンアート、絵、歌、朗読、無断転載、再配布、全て自由です。作者を偽らないでくれればあとは何をしてくれてもかまいません。もし面倒なら、特に報告なども不要です。皆で可愛がってやってください。

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アラサーのママです。#小説 タグを無差別に読みます。長編小説「ゾンビつかいの弟子」をよろしくお願いします。目次ご覧ください→ https://note.mu/toma_mori/n/n40761080856c 現在は続編「怪獣をつかう者」連載中。
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