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ジョンカーニー、平野啓一郎、モダンラブ1

 「ONCE ダブリンの街角で」「はじまりのうた」などで有名な大人のほろ苦い愛を描くのが上手なアイルランド出身の映画監督、ジョンカーニー。お〜、ほろ苦いな!うぅぅ、グッとくるじゃねーか!と言いたくなるストーリーに心揺さぶられてしまうわけだけど、特に「ONCE〜」の方は低予算で作られたにもかかわらず、その手振れ感含めてとても緊迫感あるある街「ダブリン」の名もなき恋をリアルに描く。思わず引き込まれてしまう出世作だ。

 私の”ほろ苦”映画バリエーションが低いと言われたらそれまでなのですが、この”ほろ苦さ”というある種のジャンルを確立させてしまった感じが、新たな時代の愛の輪郭を浮かび上がらせているのでは?とさえ密かに思っていた。正直最初はそこまでぐっと来ていなかったが、昨年のAmzon Prime限定配信の「モダンラブ」というドラマタイトルを知って見てみたら”まさに”と思ってしまった。このドラマの話は次回UPしよう。

 その”ほろ苦”とは、最愛の人と結ばれることだけが愛じゃない。その人のことを思いながらぐっと生きるのもありなんじゃないか。という成就しない美学。結ばれなかった愛や時代や時期が合わなくてうまくいかなかった愛も一つの愛だと言ってる。

 ここで、私は知人の薦めで最近人気の平野啓一郎の小説を二冊読んだのだが、リンクするもの感じたので脱線しつつ紹介する。読んだのは「マチネの終わりに」「ある男」の二冊。そこには割と運命的な何かを感じつつ、煮え切らない大人の恋がどちらにも描かれていて、少しジョンカーニー的”ほろ苦”を彷彿とさせた。実は世間の人気ほど私にはフィットしなかったが、なにか引っかかるものあったのでエッセイ「私とは何か「個人」から「分人」へ(「分人主義」のススメ)」も読んでみた。正直これも最初入ってこなかったけど、読んでいくうちにじわじわ効いてきた。

 平たくいうと「分人」という言葉は「個人」という単位をさらに細分化した言葉だという。そもそも「個人」とは明治時代に入ってきた西洋の概念で、日本には元々なかったが、そんな「個人」という概念だけでは生きづらくないか?個人をさらに分けてしまおうという内容だ。例えば仕事のときに職場で見せる顔と、友達や恋人に見せる顔は違う。子どもと接している時はまたさらに違うだろう。つまり人は立場によって、人格を使い分けていて、それぞれの規律が存在するといった内容だ。仕舞いには個人は分人比率で構成されているといった全く別の観点で人の個性が分断されたあたりから面白くなってきた。

 読み進めるうちに長らく抱いていた一つのもやもやが回収されていくのを感じた。それは、今までいろんな人と出会ってきて、疎遠になった人、亡くなった愛犬、今はもう会えない人たちが沢山いて、そのことを時々寂しく感じていたのだけど、それはいわゆる「思い出」として処理していた。しかし、分人という概念からその人物たちと一緒に過ごした自分というものも浮かび上がってきた。ただそれらを思い出すのではない、その人と過ごした時に感じた自分というものがどんなだったのか、という別の視点が芽生えたのだ。

 特に社会から一度断絶した気分にさらされた浪人時代に、愛犬に救われた自分というのが強い印象として残っている。あまり面倒を見ていなかった私だったが、その時期だけはしょっ中散歩に行ったりすごく仲良くなって、愛犬が自分の存在価値を見出してくれたと今でも思う。そして、その時代があったから今、多少なりとも愛とかリスペクトとか感じられる感性が育まれたと思う。愛犬はもういなくなってしまったけど、その期間過ごした分人の中で愛犬は生きていている。または、その愛犬とすごした分人というのも、時々顔を覗かせては生きている時があるのだ。

 そして、ジョンカーニー映画に戻ると、手に入りそうだった愛が自分の意思やボタンのすれ違いで手に入っていない状況だったりして、もやもやするのだけれど、そのほろ苦さがなんかいい。たまに思い出してしまうんだろう。(死別でもなく)終わってしまった恋や友情というのを分人として思い出してみると、もしかしたらどこかで自分の要素としてあり続けていたりするのかもしれない。まったく終わったわけではないというポジティビティーが、タイミングが違えど、いつかは終わる私たちの人生に安らぎや彩を与えてくれる。そんな気がしてしまうんです。

P.S. 写真は映画「シングストリート」のロケーション@アイルランド ジョンカーニー的ラブはじっと耐えるのが得意な日本人にハマっている気もする。この感じ「この世界の片隅に」でもあったかな。



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