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ディレクターズノート―『東京で(国)境をこえる』事業開始2年目を終えるにあたって

2019年の10月に本プロジェクトのキックオフイベントを開いたときにはまさか、2020年がこのような新型コロナウイルスのパンデミックに襲われるとは思いもよりませんでした。その後半年間、2020年3月に至るまで私たちはこのアートプロジェクトの趣旨である、

―「東京には見えないことにされている様々な壁がある」という仮説をもとに、その「見えない(国)境、壁」について考察する―

このことを実現するためにどのような具体的なプログラムが開催可能か? について、チームビルディングを兼ねつつ継続的にディスカッションやワークショップを重ねてきました。

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2020年初春。世界がコロナ禍に突入し、アートプロジェクトに限らず人と人が集うという、人類史上、人類がたゆまず行ってきた営為のほとんどすべてが徹底的に制限される状況下で、しかし私たちは対面での事業開催にこだわって、というのも、人と人とが直接に相対することでそこに生まれる余剰、余白のようなものは、リモートやオンラインでは代替出来ないものだと信じていたから、そしてそれこそが、人と人との交歓を生み出すものだと考えていたからなのですが、予定していた『kyodo 20_30』というプログラムも内容を改変し、開始時期を延期して対面の事業として実施・運営してきました。

『kyodo 20_30』とは、10年後の2030年に社会を担う20歳から30歳の若い人たちと、国籍・言語・文化などにとらわれずに展開することを目的としたプログラムです。

本アートプロジェクトの拠点である経堂アトリエで、集まったメンバーで協働をし、そして新しい共同体を作ろう。それは来るべき多文化共生社会における一つの新しいモデルケースとなるだろう。そこでは単に多様な人々が共棲するだけでなく、何らか、何にしても、一つのクリエイションを共にすることにより、個と個が、互いの違いを前提にし、それを尊重しつつも、何かしらを共有出来るような、新しい信頼関係を持った共同体(コミュニティ)が生まれるのではないか。

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そんな思いをもって私たちはこの『kyodo 20_30』というプログラムを開始しました。

コミュニティというのは元来、自然発生的なものです。家族、地域社会、国家など、それぞれのレイヤー毎に存在するコミュニティには、もちろん様々な意義や、意味、目的が存在します。ですが、どれをとってもそれらの意味や意義、目的はやはり後付けであるということがいえると思います。僕は社会学者でも文化人類学者でもないので、生半な知識で論を展開するのはここでやめにしますが、私がここで強調したいのは、新しいコミュニティを人工的に作り出すのは、非常に難しいということです。
 
何らかを目的としたチームや企業などの組織であればそれは別です。組織は、それが営利目的であれ非営利目的であれ、何らかの目的があり、一般に何かを作り出すことを想定しています。しかし、自然発生的なコミュニティ、共同体はどうでしょうか。明確な目的、目標のない、組織ではないそれはどのようにすれば、人工的に生成することが可能なのでしょうか。

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今回、ディレクターとして私がいちばん頭を悩ませたのはその点でした。私は、shelfという劇団の代表で、演劇の演出家です。ですから例えば、私が作りたいものを作るために人を集める=組織するということはさほど難しくありません。いや、それはそれで難しい作業ですが、長年そのことに注力してきた私はその手法を少なからず知っています。
 
一方で、コミュニティ『kyodo 20_30』は、何か分かりやすい共通の達成目標を持った組織ではありません。

コミュニティを作るということは、コミュニティを作るということが目的であって、例えば劇団を作るということが演劇制作をその目的とするように、その外側に目的を持たない。

そのようなコミュニティのあり方を『kyodo 20_30』は目指していました。例えばそれが結果的に目標、目的として表現することを選ぶとして、しかし、その表現ジャンルや媒体に決まりはなく、あるいは社会運動のようなものを目指すとしても、集まりの最初から特定の成果を生み出すことは期待されていない。しかも座っているだけで何かを得られることが約束された学校のような場所でもなく、あくまで自発的に、そこで初めて出会った他者と共に何かを為すことを期待されている場所。もちろん、何もしないことも許容された場所ではありましたが、いずれにしても乱暴な話です。人を集めておいて、何をすべきか指示は一切しない。教えることもしないのですから。

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ただ一つだけあった参加者への要望は、先に述べた、東京には見えないことにされている様々な壁がある」という仮説をもとにその「見えない(国)境、壁」について一緒に考察しよう、ということ。さらにはその過程において、考察の結果を何らかの「問い」として、出来ることなら、他者、あるいは社会と共有可能なかたちにして発表して欲しい。というものでした。
 
それがどこまで実現出来たのか。出来なかったのか。
 
『kyodo 20_30』の1年目を終える時期に来て、ディレクターとして​反省点はいくつもありますが、それでも得るものは確実にありました。何より、協働(=共同制作)を前提としつつも、それを必須条件としたコミュニティでは、「kyodo 20_30」はありませんでした。にもかかわらず、このコミュニティ「kyodo 20_30」から、単に予定されていた成果発表にとどまらない、次年度以降に実を結ぶような種がいくつも生まれたこと。それもプレイヤーやコラボレーターから自発的に生まれてきたことは想像していた以上の収穫でした。

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とはいえ、もちろんこの種はまだ芽吹いたばかりです。ですから来年度、出来れば再来年度以降も継続してこのコミュニティを育んでいくことが、このプロジェクトにとって非常に肝要なことと信じています。
 
それから改めてここに思うことは、このコロナ禍を通して私たちが直面した、大量生産や、効率至上主義、あるいはスケール(動員数や、それが届く距離)を重視することばかりを是とした価値観を問い直すきっかけを、この事業が私たちに与えてくれたこと。それも単なる気づきのレベルではなく、実践のレベルでそれを行うことが出来たのは、この事業が東京都とアーツカウンシル東京との共催事業であったからこそであろう、と、切実に感じています。
 
個と個が、お互いの違いを前提にそれを尊重し合いつつ、協働する。共に手を動かし、汗を流し共同制作を行う、そのようなアートプロジェクトを継続的に行うこと。それこそがまさに、今までになかったような新しい、これからの時代に必要とされるような、共棲、多文化共生の時代を迎えるためのその一助となることを期しています。

「東京で(国)境をこえる」ディレクター、矢野靖人

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