バーチャルキャンパスについて考えてみる

コロナウイルスの蔓延は突如やってきた災禍であるように思われている。本当にこれはだた、過ぎ去るのをただ待つだけの災禍だろうか。
私には、この災禍は社会のひずみをあぶりだす、リトマス試験紙のようにもみえる。
現代の社会にはステレオタイプの古い業態が、本当は既に変革されるべきことが、旧態依然として残っている分野が数多くある。
これまでの常識に安穏としていたいという人間の欲望や、既得権が変革を妨げていたりする。
特に世の中に浸透しているほど、それを変革することは大ごとであり時間がかかるものである。
例えば、社会は人間を狭い空間に押し込めることを良しとしてきた。
都市がそうであり、過疎と過密を生み出した。この世にあるほとんどの建造物は閉空間に多数の人間を閉じ込める発想から成り立っている。
現代社会は、一般的な社会生活や経済活動そのものが、人の移動ありきで成り立っており、コロナウィルスはこの根本的な生活習慣も揺るがしている。
そのようなこれまでの、ごく当たり前の価値観を、コロナウィルスは根底から覆した。
多くの分野で、これまで先送りすることが可能であった根本的な存在意義を見直すという重い課題を突き付けられている。

そして教育業界もその例に漏れない。学校そのものが限られた場所に人を集め、知識を供与する場所である。
けだし、コロナ禍で学生たちも通学できない状況に陥ってしまっている。
それはコロナ禍のせいだけだろうか。コロナ禍以前にもすでにその問題は存在していたのではないだろうか。
以前から、学校での旧態依然の座学により知識を供与する体制は既にその必要はなくなっており、データ配信により可能であった。
学生は特定の大学の決められた先生の講義を受ける必要もなく、世界中の学校の好きな先生の講義をネットワークを介して享受できるのである。
既に多くの大学で講義はインターネットで配信されており、一流大学の一流の先生の講義を誰でもいつでも受講できる。
そのような環境の中で多くの大学の知識を供与するという存在意義は崩壊していたとも言えるのではないだろうか。
多くの大学は、コロナ禍によって、急にその現実を突き付けられ、慌ててデータ配信による授業を始めたに過ぎない。
大学の存在意義は既に崩壊している中で、社会の惰性により学生を教室に集め講義をするという旧態依然の体制が維持されていただけである。
一流の講義をどこでも誰でもネットワークを介して受講できるということは、知識を得ようとするものは特定の学校や教室に赴く必要はなく、
極論すれば、大学へ入学する必要さえないということを意味する。
知識の供与という側面において、コロナ禍以前に、学校の存在意義は既に崩壊していたのである。
コロナ禍以前は、社会の惰性により、この根本的は問題から目を背けることが可能だっただけである。
このように、まさに今、大学の存在意義を根本から問い直す必要があるのである。

では、現代の大学の存在意義は既に消滅してしまったのだろうか。それともどこか別のところにあるのだろうか。
もし学校という仕組みを存続させたいと思うなら、価値観を根本から再構築する時期に来ていると思われる。
例えば、大学は学問の府でありながら、ほとんどの学生は就職のために高い学費を費やして通学しているというのが実態ではないだろうか。
つまり職業訓練の意味合いが強いのだが、仕事に直接関係すると思われる実践的な講義はほとんどない。
ほとんどの学生はそれまで受けてきた授業とは関係ない業界に就職し、入社してから一から職業訓練をおこなっているのが実態であろう。
では、大学は職業訓練校になればいいのだろうか。いや、そうではないと思うのが筆者の考えである。
大学に通った時間がまったく無駄であったのか、というとそう思っている人は少ないのではないだろうか。
直感的な感覚だが、私もどうしても無駄であったとは思えないそのひとりである。
そこに存在意義の再構築の手掛かりがあるのではないかと思う。
昔は地元に密着した御用聞きのお店がどこにでもあったものだが、スーパーマーケットやコンビニの台頭により、安価に、手軽に商品が手に入るということからほぼ消滅した。
これも存在意義の消滅といえるだろう。
しかし、最近ではコンビニが配達を行うサービスを始めており、その本質的な価値観は消滅していなかったともいえる。
大学におけるその本質的な価値観とは何だろうか。
実は同時代の同世代と同じ時間を共有できたという、時間そのものではないかと思う。
大学とは場所でも勉学でもなく、人生における一つの時代なのである。
一つの時代を経験させるためには、ある目的を同じくした多数の人間が集う必要がある。
そのある目的がたまたま勉学であるところが大学なのである。

さて、大学の存在意義を見直してみると、人が集う必要があることがわかる。しかし、それは、学生が特定の大学に集まることが既に無意味化していることと矛盾するように思える。
幸いなことに、この矛盾は、技術の進歩により解決可能である。
というより、実社会でこの技術が浸透し始めている。
既に、多くの人たちはネットワークを介して集うことに抵抗がない。
多くの分野でネットワークは革命により既存の価値観の崩壊が起きており、大学は目を背けてきたにすぎない。
今こそ、そこに立ち向かわなければ、大学は存在意義もろとも消滅しかねない。
大学は、IT技術を積極的に活用したキャンパスライフを実現できるように取り組むべきなのである。
では実際にどうしたらよいのだろう。
まずは、全学生にIDを付与し、仮想空間でキャンパスライフを送る術を提供するのである。
学生はその中でファッションや思想で個性を発揮し、表現できる。そして、成長できる。
その空間の中で、必要と思える講義に参加でき、知識を享受できる。
仲間を集めて、その他の文化的な活動にも参加できる。
仮想通貨を用いて経済活動も経験してもよいし、音楽や芸術を発信してもよい。e-sportsを取り込んでもよいだろう。
学生たちは、社会生活を独り立ちするための仮想社会としての空間を享受し、大学時代を謳歌する。
その時代の中で、自分を見つめなおし、自分の存在意義を見つけ、成長する。
その時代の中で、個性を確立し、その個性を社会で生かす居場所を見つけることもできるようになる。
さらに大学の研究者側にもメリットがある。
条件次第では、これまで難しかった法律、社会制度や経済理論などの実践を、仮想空間で試すことも可能となる。
最先端の研究を、社会実験できる場ともなりえる。
大学が提供する仮想空間とは、まさに社会参加への訓練場であり、付与したIDとはまさに参加者のアイデンティティとなるのである。

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