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フライ・オン・マイ・フェイス

 初めて入ったそのバーはカウンター7席だけの小さな店で、左一番奥の席、西田晶也はひとりで飲んでいた。
 今日はお気に入りの服を着て、街をブラつき、だいぶ歩いた。歩いた割に大した収穫もなかった。なのでこの店に入ったのもまだ日が暮れる前でだいぶ早かったが、今はきっと外も真っ暗であろう。何時間ここにいるのか。だいぶ飲んだ。すっかりほろ酔いのふわふわした足取りでトイレに向かった。

 用を足し終わって、狭い個室で振り返り、手洗いの金メッキの蛇口に手をかざし、洗う。目線は石鹸の泡を流し切った手から目の前の汚れた鏡に映る己の顔へ移動した、ところ。
 顔に小バエが止まっている。
 晶也は手ではらった。しかし小バエは顔に止まったままだった。虫のくせに小生意気な。潰してやる。デストロイ。晶也は手で顔を叩いた。
 酔っていたためか力の加減そして距離感が掴めず思いのほかスナップの効いたビンタが入った。痛かった。
 しかし小バエは止まったままであった。
 晶也は涙目で顔を鏡に近づけ、よくよく小バエを凝視した。涙と酔いで凝視すると頭がクラクラしたが、クラクラしながらわかったのは顔のそれは小バエでなく、血が固まっていたのであった。そういえばこのバーにたどり着く前、裏通りの小さな中古レコード屋にいた辺りで、年甲斐もなく吹き出物が出来ていたのが気になって、潰したような記憶があるぞと思い出した。
 それにしても、この塊はどう見ても小バエである。なんとなく三角形で。
 カウンターで飲んでいる間、黒の開襟シャツを着たバーテンの兄さんは俺を「顔に小バエが止まっている人」と思ってずっと見ていたのか。そう考えると晶也は恥ずかしくなった。今日は自分なりにお洒落な格好でキメて来た。しかしどれだけキマっていたとしても、顔に小バエが止まっているのでは台無しではないか。くそ。と言ってもバーテンは男である。別に同性に「格好いい」とか思われるほど突き抜けた存在でなくていいし、異性には、と言って7席のカウンター、しかも満席ではない、その中に気になる異性はいなかった。いずれにせよ結局ファッションというのは自己満足である。他人の評価はいらない。従って考えるだけ無駄なのであるが、だがやはり間違いなく言えるのは、小綺麗にしているのに顔に小バエが止まっているのはかなりアホっぽい。
 まったく。思いながら晶也はそのかさぶた状のものを爪でひっかいた。酔っていたので再び力の加減がわからず思いのほか爪が深く入った。小バエはするりと取れて、そこから鮮血がポタポタと滴り、買ったばかりのブランド物の白のティーシャツに付着した。
 うわわわわわわ。
 顔に小バエもアホっぽいが、顔から血を流して白いティーシャツに血が付いているのもまた、相当みすぼらしい。高いティーシャツなのが余計にみすぼらしい。窮地を脱して辿り着いた場所はさらなる窮地であった。ガンガン流れているBGMのラップミュージックがうるさい。大体このBGMは店の雰囲気に合ってない。ずっと思っていたがもう黙っていられない。と言って心の中の声だが。
 再び金メッキの蛇口を捻り、流れ出た水を手に取り顔の傷口を拭うが、次から次へと綺麗な真紅の血が流れる。酒を飲んで血行が良いのか。結構なことである。いや今はケッコウです。コケコッコウ。韻を踏む。BGMの影響か。ラップミュージックがうるさい。頭の中の声はもっとうるさい。
 濡らすよりも乾かしたほうがよさそうだ。尻ポケットにハンカチが入っているはずである。晶也はそれを確かめいざ取り出そうとしたが手元が狂った。ひらひらとハンカチが汚れたトイレの床に落ちた。
 生きているとこんな瞬間にたびたび遭遇する。今この瞬間の次の展開が、望まない展開も含めスローモーションのように見える瞬間。そしてそんな時はだいたい、一番望まない展開になる。回避不能。不思議だ。不確実性の確実。
 晶也は水と尿が混じり合った液体の上に落ちたハンカチを拾い上げてそのままゴミ箱へポイした。気に入った色のハンカチだったのに。くそ。そして、手洗い場に置かれていたペーパータオルを2枚取り、くしゃくしゃに揉んで傷口に強く押し当てた。そのまま30秒ほどじっとしていたが、その時間は5分にも10分にも感じた。ティーシャツの血はこの個室内の出来事による心労でもう何だかどうでも良くなって、忘れることにした。BGMがいつの間に変わっていて、ブルーノ・マーズの曲が、晶也を置いてけぼりにしてノリノリで流れていた。

 出血をなんとか止めた晶也は、本当はトイレに行ったら会計を済ませて帰るつもりだったのだが、心底くたびれてしまい、カウンターの席に戻りもう一杯オーダーすることにした。
 やがてウィスキーのロックが晶也の前に置かれた。深く溜息をつき、落ち着きを取り戻しながらグラスに目をやると、グラスに小バエが止まっていた。

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