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生まれ変わりについて考える

 先日とある飲食店のカウンター席で、お店の人から「生まれ変わったら何になりたいですか?」と訊かれた。
 何気ない質問であるが、少なくとも私にとってこれはなかなか深い質問であって、そもそも生まれ変わりとは何なのか、生とは何なのか、という大命題につながる問いかけである。恐らくは、私だけでなく多くの人が「人生とは何なのか、私は何故生まれたのか」という疑問を常に抱いて生きているはずで、従ってこういう問いかけに対しては、私の年齢なりに感じるところの最善の答えを熟考の上、大真面目に答えたくなる、というのが私の質である。
 だがしかし、飲食店のカウンター席というシチュエーションにおけるその質問にさしたる深い意図があるはずもなく、そこで熱弁を振るったとてその言葉は彼/彼女の耳元を風のように通り抜け、消えてなくなるだけである。なのでその場は当たり障りの無さそうな範囲で答えた。答えたつもりだがかなり端折ったので結果、まるきり気のない答えに聞こえたかも知れない。というか、そもそも何を答えたのか、向こうは覚えてはいないだろう。
 それでもなお、訊かれた側の私の脳裏にはその質問が今日に至るまで、もやのように漂っていた。なので考えを整理して書き留めることにした。

 そもそも生まれ変わりとはどういうことなのか。
 恐らく一般の人が抱くイメージは、今の肉体に死が訪れて、それでもなお魂は生き続けて、どうにか新しい肉体を手に入れて再び生を受ける、ということであろう。
 何故そのようなことを人がイメージするのか考えてみると、恐らくは睡眠、そして夢というものが影響しているように思う。我々は毎日睡眠をとる。熟睡している時は恐らく、心肺機能は働き続けるが意識はほぼない。意識、という側面から見たら、死んでいるのと状態は変わらない。一方、レム睡眠の時に、我々は夢を見る。それは現実社会を飛び越えて、一緒にいるはずのない人間と、行ったこともない場所で、やったこともないことをしている、場合もある。
 だが夢を丁寧に分析していけば、やはり実在する己の肉体に深く根ざしているものであることに気づく。例えば夢の中で、我々は話せもしないロシア語やハンガリー語ではなく、日本語で思考し会話している。そして使われる単語も、自分の知識の範疇の言葉でしかない。私で言えば、札幌の裕福ではない家に生まれ、普通の義務教育を受け、大学には進学せずただ読書は好きであったので読んだ本で学んだ言葉、そういったフレームワークの中での思考であり、それを決して超えることはない。知りもしないチェスの定石で場面を喩えることもないし、操縦したこともない飛行機のコクピットを操作することもない。私は男だから、女性の身体構造に伴う精神構造も永遠にわかり得ない。つまり我々の思考のフレームワーク、あえてそれを「魂」と言い換えてみると、魂は現実の肉体に深く根ざして形取られている。
 では、今の肉体が死を迎えて、例えば何処かで今まさに生まれ落ちようとしている新生児の肉体にこの魂が乗り換えたとして、そこまで培われた魂に何の意味があるのか。生まれ変わりが女なら?お金持ちで何の苦労もない家なら?未開の地で野生動物を捕らえないといけない社会なら?そもそも人間なのか?地球外の全く組成の異なる肉体なら?全てリセットされてしまうのか?そこまでして、自分が永遠にこの宇宙に存在すべき理由は?
 そう考えると生まれ変わりというものの合理性、信憑性については、私は甚だ疑問を感じてしまうのである。

 とはいえ、生まれ変わりはないとして、我々は自分として生まれたが最後、死ぬまでひとつの肉体に閉じ込められ、その肉体の制限に囚われながら成長するよりないわけで、その器がよりによって何故この自分なのか、というのは全くもって不思議ではある。寝ても覚めても自分である。とことん中庸な自分、である。何か他の生き方はなかったのか、今から人生を誰かと入れ替えられないものかと、願わないこともない。しかし叶わぬ夢である。
 寝ている間に、夢すら見ない時間がある。死とはそういうものなのだろう。意識もない、まるっきりの無。そう考えれば、それは生まれてから今日まで毎日体験していることなのだから、大して怖いことも、ない。

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