三毛猫バナー

三毛猫の女房 第3話 夏越圭介と酒場の罪 3

「花梨さんでさえ、これまでに一回ぐらいは不動正義に本気で〝ありがとう〟っていったことがあるでしょ?」
 突然キワコに話をふられて、花梨が答えに窮したのがわかった。
 キワコはときどきダーツのように先の尖った、当たるとかなり心が痛む言葉を投げてくる。なまじ彼女が「占い師」なので本人さえ自覚していない重さを含み、冗談が冗談ですまなくなるときがある。
 花梨もとんだとばっちりを受けたもんだと、圭介は気の毒に思った。元はといえば自分が蒔いた種なのだ。何とかフォローしなければならないと思いつつも、いい切り返しが浮かんでこない。
 そうこうしているうちに、花梨は素直に答えた。
「わたしも憶えてない。キワコさんがいうとおり、タチの悪い、薄っぺらい〝ありがとう〟しかいってない気がする……」
 キワコは花梨のその答えを予期していたようだった。
「ごめんごめん、不動正義が相手じゃ誰だってそうだよね。人間、誰しもそういう相手が一人ぐらいはいるんだってことね。その相手が出来の悪い兄貴ならまだしも、結婚相手だと話が厄介になるけど……」
「結局、話はまたおれに戻ってくるわけか……」
 圭介はぼやいた。そして、キワコに向かっていった。
「そういうあんたはどうなんだ? いいたくてもいえない相手はいないのか?」
「いるわよ、もちろん」
 キワコはそう切り返されることまで予想していたらしく、動揺することもなく答えた。
「──誰だよ?」
 キワコはどうやら現在は独身らしいが、過去に結婚したことがあるのかどうか、詳しいことは知らなかった。
「アタシの場合は、母親かな?」
 男の話が出ると勝手に思い込んでいた圭介は、キワコの答えを聞いて意外に思った。
「──どうしてもいえないのよね、素直な気持ちが」
「人のこといえないじゃないか。おれはいうよ、お袋には割と気楽に。こないだだって花梨ちゃんの頼みを聞いてくれて、素直に〝ありがとう〟って──ねえ?」
 と花梨の同意を求めたが、彼女もまた圭介の思惑どおりには反応してくれなかった。
「そんなこといったら、わたしだって母親とは普通に会話ができるし、気持ちの入った〝ありがとう〟もいう。それにきっと圭介さんの奥さんにだっていえると思う」
「それはそうかもしれないけど……」
「あ、いいこと思いついた──」
 キワコがいうと、圭介はイヤな予感がして耳を塞ぎたくなった。
 彼女はお構いなしにつづけた。
「せっかくだからここで練習してみない? お互いに役割分担なんかして……アタシがマスターの奥さんをやる。マスターは不動正義役、花梨さんはアタシの母親」
 やっぱりそうだ。簡単に思いつく「いいこと」が「いいこと」だった例《ため》しはないのだ。圭介は何とか花梨を味方につけて、そのアイディアを却下しようとしたが、またしてもキワコに先を越されてしまった。
「……三人ともやるならマスターだって気が楽でしょ。持つべきものはいい〝女友だち〟よ、ねえ?」
 といって強引に花梨を丸めこもうとする。
 花梨は「え、あの……」と一瞬抵抗しかけたが、すぐに諦めてしまった。
「はい、花梨さんやってみようか?」
 キワコがすかさず花梨を促した。
「やってみようっていわれても……」
「マスターを正義だと思って〝ありがとう〟っていうだけでいいのよ」
「──それだけ?」
「でも、ちゃんと気持ちを込めてね。マスターが奥さんにいうときの参考になるように。具体的に何に感謝しているのかイメージしないと……」
「うーん、ハードル高いな」
 花梨はなかなかイメージが固まらないで悩んでいる。
「例えばさ……」
 キワコがそういい出したとき、圭介は彼女が、花梨があの災害に遭遇したときの話をたとえに持ち出すのではないかと慌てたが、それは杞憂に終わった。
「〈雑司ケ谷スイーツ〉のお店の庇《ひさし》、業者が取りつけたときにヘンに皺が寄っちゃったのを不動正義が直してくれたらしいじゃない」
「どうしてそれを?」
 だが、キワコは答えずに、
「そういう些細なことにこそ、よく考えてみるとジワッと感謝の気持ちが湧いてこない?」
「そういわれればそうだけど……」
「さあ、マスターを不動正義だと思って」
 キワコは遠慮なく花梨を焚きつけた。
 花梨は軽く咳払いをしてから、照れくさそうに圭介を見上げた。それからか細い声で「ありがと」といった。
 照れくさいのは圭介も同様だった。三文芝居みたいになった二人の姿に、キワコからダメ出しが飛んでくるかと思ったが、意外にも彼女は今度は圭介に顔を向けて、
「次、マスター!」
「今みたいな感じでいいの?」
「いいわけないでしょ。今の花梨さんの〝ありがとう〟には全然気持ちがこもっていないと思うなら、そうじゃないやり方でやってみてよ」
 手厳しいなあ、と圭介は困ったように顎を掻いた。
「……イメージできた?」
「うん、まあ」
「アタシを奥さんだと思って、いってみて」
 キワコはカウンターにもたれていた体をきちんと起こして圭介に正対した。もはや逃げ出しようがなかった。
「……あ、ありがとう」
 何とかそう口にしてペコッと頭を下げる。下げながらも目はキワコを見たままだった。
 彼女の顔にやれやれという表情が見てとれた。
「──今、どんなシーンをイメージしてた?」
「どんなシーンっていわれても……」
「マスターは奥さんの〝何〟に感謝したわけ?」
「何っていわれても……」
 キワコが苛立っていることはわかっていたが、圭介にはそれ以上どうしようもなかった。
「急に練習しようっていわれてできるくらいなら、苦労はしないよ。そんなにいうなら見本を見せてくれよ」
 何とか反撃すると、またしてもキワコは平然とうなずいてみせた。
「花梨さん、アタシの母親をやって」
「キワコさんのお母さん?」
「そこに立っててくれるだけでいいのよ──いい?」
 キワコはさらに圭介に向かって、よく見ていなさいといわんばかりに「いい?」と念を押してきた。
 それからたっぷり間をとって、正面に立っている花梨の目を見つめ、表情を和ませながら、
「──ありがとう」
 と、ごく自然に言葉を投げかけた。
 いつもの彼女の言葉がダーツの矢だとしたら、まるで小さな花束を差し出すような優しい響きだった。いわれたほうの花梨がちょっと震えたことさえわかった。
「どうよ?」と口には出さずにキワコがこっちを見た。
 同時に花梨が「今の、キュンときた」と学生みたいな反応を示す。
「キワコさん、いったいどんなシーンをイメージしてたの?」
 花梨でなくても聞いてみたい質問だった。
 しかし、キワコはゆっくり首をふった。
「それは秘密……ずっと前から母親に感謝したいと思っていた、とっておきのネタがあるのよ。人には教えられないけどね」
「わかったよ、頼むからさ、おれの代わりに〝ありがとう、感謝してる〟って、あいつに伝えてくれないか?」
 圭介はますます自信を失って弱音を吐いた。
「甘えるんじゃないの、ちゃんと見本は見せたんだからしっかり練習しなさいよ」
 キワコはふたたび猫のようにカウンターにもたれ、ワインのお代わりを催促する合図でカウンターの天板を軽く叩いた。
 仕方なく圭介がボトルを取り上げると、彼女はグラスを差し出す代わりに、一枚の黄色い〝ポストイット〟を床から拾い上げてきた。
「あれ──こんなの落ちてた」
 接着力のなくなった〝ポストイット〟を受け取ると、妻の筆跡でメモが記されてあった。それは何かの材料リストのようだった。
 米、アーモンド、ピスタチオ、レーズン、そしてリストの最後にはドイツ語で、〝究極のグレープジュース〟と書かれている。
 圭介は花梨に向かって訊ねた。
「これって何のリストだと思う?」

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

2
〝パワードブック〟(=電源を入れて読むテキスト)専業作家。『法律事務所×家事手伝い』『月光と猟犬のサーガ』『ミステリー・マスト・ゴー・オン』各シリーズをAmazon Kindle電子書籍で発売中! 電子書籍案内サイト:https://www.tokyocontebros.com/