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朝鮮の氏族伝統―日本の社会における「公共」の成立―

朝鮮における儒教の伝統、とりわけ李氏朝鮮時代の朱子学の伝統がその歴史や習俗にどのように影響したかを検討することは、我が国の歴史・社会・習俗を考察するうえで重要な比較を有していると思います。その意味において、朝鮮の朱子学の伝統は日本社会を知るうえで、重要な補助線になります。 という意味において申し上げると、朝鮮社会は、その儒教における血統の重視と身分差別によって、地縁社会(地域社会)が成立・発展しなかったことが、日本における社会的発展との大きな違いであると考えています。

地縁社会が発展しないと、自治も民主主義もありません。どこまでも血縁のコネと人脈が偏重される社会になります。賄賂もコネも、地域社会よりも血縁社会が優先される社会の帰結です。

朝鮮半島には、日本には全国津々浦々にある村落の祭りがありません。どんな山奥でも田舎でもある「お祭り」がないのです。日本では5-600年、続いている祭りはどこにでもざらにあります。1000年以上続いている祭りも珍しくありません。

村落の祭りがないということは、朝鮮半島の特色というより、これがどこにでもあることこそが、日本文化の特色だと思います。 日本は血縁社会のしがらみから、地縁社会の発展をとげ、社会はゲゼルシャフトからゲマインシャフトへと発展し、血縁に囚われない地域の自治が成立していったのです。 そのことにあたって、儒教の血統・血縁の重視から、地域社会における「公」が成立していったのだと思われます。

公共の成立には、個人の血縁社会からの離脱が必要です。日本の個人は共同体に埋没しているということが、よくいわれてきましたが、僕の分析によれば、日本の個人は、血縁社会から独立し、地域社会、すなわち公共の一員となりました。

「個人の尊重」と「公共の成立」という文脈においては、日本は朝鮮や中国より遥かに進んでいるといえるように思うようになりました。それは左翼のいう「個人の尊重」とは違うものかも 知れません。

個人の自己主張の強さは、日本は中韓に遥かに劣っていますが、それは「公共の尊重」という配慮に基づくものであって、そこでの公共は、血縁による共同体とは違っています。

そうした観点は、あまり学校でも教えてきませんでした。個人と社会の関係を論じるうえで、その社会の地縁・血縁とを区別し、公共性を意識させる教育をするうえで、日本と中韓との違いは、きっちりと教えておくべきではないかと愚考する次第です。

ところで、妻が夫の姓を名乗れないことを、女性差別だとしておられますが、これはいかがなものか。イスラム教の一夫多妻婚を女性差別だというようなものであり、妻が夫の姓を名乗らず、生家の姓を名乗るのは、男系の血統を重視する儒教的社会の必然であると思われ、これを差別だというのは、ちょっと局面がちがうような気がしています。

中韓では、日本人のようにファミリーネーム(クランネームである「姓」とは異なる「氏」)を持たないということ。そしてそのことに関する無知が、創氏改名が差別であるといういわれのない誹謗を日本国民が受けてきたこととの関係でこのことを指摘しておかねば、と思った次第です。 

(H30/12/12  MLへの投稿から)

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