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怒りの使い方~「怒りで書く」と「怒りを書く」~

『Filmarks』という映画専用のSNSをやっている。

久しぶりに自分が書いた拙い感想を眺めていたら、Filmarksを始めたきっかけは「怒り」だったな、ということを思い出した。

去年の末、渋谷の映画館で一人で映画を観た。松岡茉優主演、大九明子監督の『勝手にふるえてろ』という映画だった。それはそれはすばらしい映画で、 終演後、感銘を受けたぼくが余韻に浸っていると、 斜め前に座っていた若い女性の二人組が席を立ち、顔を見合わせて「なんか鬱っぽい映画だったね~」「ね。」とだけ言いながら去っていった。

「え!??」と思った。
「こんなすばらしい映画を観て、それだけ?? 」

最初は驚きだった感情は呆れを経由して、徐々に怒りへと変わった。

作品が可哀想だ、という怒り。
作り手たちの血と汗と涙の結晶が、その価値がきちんと理解されていないという憤り。

「なんだあいつら!俺は違う!作品をちゃんと分かってる!」

今思えば驕りでしかないし、作品の見方なんて様々なのだからその人の観たいように観ればいいのだけれど、とにかくこの時ぼくは怒っていて、そしてそういうへんな怒りを原動力に書いたのが下の感想だ。(感想自体はべつに読まなくても大丈夫です)

『勝手にふるえてろ』

テーマ
内的世界に閉じ籠る主人公が、それを受け止め、はじめて外的世界と本当の意味で交わるまでの話。

高校時代の同級生イチに対して10年間片思いを続けるヨシカ。妄想の中でイチとの交流(=恋愛)を繰り返し、外的世界には常に心の壁を隔てて接触するヨシカにとって、自分に好意を寄せる会社の同僚二はヨシカの内的世界に入り込もうとする侵略者でしかなく、異質で不愉快な存在だった。しかし、度重なる侵略によってヨシカの心の外壁には小さな穴が開けられ、10年間溜まりに溜まったイチへの思いが外に溢れ出る。ヨシカは現実のイチと対面するに至り、10年間妄想の中で対話してきた相手が現実のイチとは全くかけ離れた自らの鏡像に過ぎなかったという事実を知る。華やかな内的世界は打ち砕かれ、ヨシカは初めて心の壁を通さず外的世界と直接交流することを強いられる。耐え難い苦痛の中ヨシカに手を差しのべるのは内的世界の"友人"たちでも"イチ"でもなく二であり、この時ヨシカは内的世界の中で虚像と向き合い「勝手に震えて」いた過去の自分との決別を宣言し、壁を隔てず外的世界と本当の意味で交流するに至る。
演出
前半はヨシカの内的世界の華やかさを軽快なコメディとして描き、その中に入り込もうとするニの不愉快さを強調する。この頃まではどんな映画かさっぱり分からなかったが、ずっとこの調子でも良いくらい面白かった。中盤、内的世界の瓦解という物語上最大の転換部分をミュージカル調にするクセの凄さは松岡茉優がやるからこそ上滑りせずに成り立つような気もする。
最後の「勝手にふるえてろ」の台詞はヨシカが過去の自分自身に向けて放つ別れの宣言であると同時に、ヨシカと同じように「勝手にふるえる」多くの観客たちへの捨て台詞であると感じた。あと、処女性の象徴たる赤い付箋がニの濡れた身体に触れて濃く染まっていく様はこの作品の芸術作品としての価値を一段上に押し上げていると思った。
ひとつだけ、マンションの前でヨシカとニが木を挟んで向かい合うカットで、後ろの道を車が「ヨシカ側からニ側へ」走っていく所の意図が分からなかった。一方通行、という意味では逆なんじゃないかと思ったり。

今見ると端々に見え隠れする「おれは分かってる」感が鼻について本当に気持ち悪い。

けれど少なくとも怒りの消化の仕方としては、これは結構よかったのじゃないかと思う。

というのも、ここにはネガティブがひとつもない。

ぼくのよくわからない怒りは、「作品の感想を言葉を尽くして語る」という前方の一点に注ぎ込まれ、誰かを傷つけることに使われることは全くなかった。そしてぼくが感想に注入した怒りは、他のユーザーから貰ったいくつかのいいねとコメントによっていとも簡単に成仏し、承認欲求が満たされたぼくはすこしだけ幸せになった。

逆に、よくない怒りの発散の仕方は、上の「なんだあいつら!俺は違う!作品をちゃんと分かってる!」という怒りそのものを膨らませてSNSなどに垂れ流すことだろうか。おもしろくもなんともないネガティブを見せられてハッピーな人は多分いないし、それを垂れ流してしまった自分自身も嫌な気持ちになるだろう。

そもそも、たいていの怒りは放っておけば消えるような一過性の衝動だ。
どうせ衝動の波に動かされるなら、誰かを貶めるためじゃなく、自分が気持ちよく前に進むためにそれを利用したい。

怒りの感情そのものを表現することと、怒りを何かを表現するための原動力に使うこと。
両者の境界は曖昧だし、もちろん正義や人道のための怒りなんかは前者の使い方もあって然るべきだと思う。

ただ、怒りを使うとき、自分がどちらをやろうとしているのか、本当はどちらをやりたいのかくらいは、常に自問した方がいいような気がする。

*****

自分では怒り「で」書いているつもりでも、実はけっこう怒り「を」書いてしまっているというパターンもある気がしました。それが下のnoteです。怒りが漏れ出た結果、すこし説教くさいものになってしまい反省しました。
ただがんばって良いことを書こうとしたので、もしよければ読んでみてください。

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