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感動的な三題噺。【雁風呂】

ガンブロ、と読む。

この噺は、「絵解き」がメインになっている。
舞台は静岡県・掛川。
東海道・掛川宿の宿屋兼食堂で、旅人には見向きもされず置いてあった絵。
実は名人による名画だと看破した町人が、その絵に込められた逸話を語る、という内容だ。

しかしそれだけでは済まない。

その話をするのは淀屋の二代目。あの「淀屋橋」を作った大阪の豪商・淀屋の主人なのである。
総資産200兆円と言われたほどの大阪の商人のトップが、なぜ静岡の掛川で旅をしているのかというと、「お取り潰しにあった」という。

淀屋は、大阪の米相場を作ったという豪商。
あまりに裕福で贅を尽くした暮らしに、幕府は怒って取り潰しに至ったという。
武家ならば「お取り潰し」とか「改易」と呼んで良いと思うが、町人には「闕所」という、財産没収刑が下された。「幕府は怒って」とは言ったものの、なぜ怒ったのか。「僭上の振る舞い」を咎められたという淀屋は、天井をギヤマン(ガラス)張りにして金魚を階下から眺めるなど、今の大富豪でもやらないような物凄い贅沢をしたことでも知られている。身分不相応な振る舞い、ということらしい。しかし米市の発展への貢献や、「淀屋橋」を架けた、という地域貢献もしている。

「雁風呂」の中ではこの闕所の理由についても語られる。

豪商となった淀屋は、大名に金を貸し付けていた。そもそも経済観念の薄い武士たちは常々「借りてやる」という態度であり、金は汚い、商売などは賤しい生業、くらいに思っているから返さない。身分が下である町人に返さなければならない理由などない。貸主である淀屋にへりくだることもない。どうしようもないほどの借金がかさんできた武士たちが実際は返済に困り、幕府に言上して、闕所になった(のではないか、と)。

これを語っているのが「淀屋の二代目」と書いたが、実際に淀屋が闕所になったのは五代目の時だそうだ。
没収されたのは金12万両、銀12万5000貫、家屋1万坪と土地2万坪、その他にも材木や船舶、多数の美術工芸品があったという。焦げ付いた大名へ貸した金額は銀1億貫以上(100兆円を超える)だと言われている。

なぜそれを語るのが、実際の宝永2年(1705年)の闕所のときの当主、つまり五代目淀屋廣當(よどやこうとう)ではなく、二代目淀屋言當(よどやげんとう)でなければならなかったか。

それは、語る相手が「水戸黄門」でなければならなかったからである。

黄門さまで有名な徳川光圀(水戸光圀)の没年は元禄13年(1701年)。実際の「淀屋の闕所」を待っていては寿命が尽きて死んでしまうのである。なので落語ではちょっと前倒しをしてもらって、二代目淀屋に登場してもらった、という案配になっている。そして実際の水戸光圀は自領内からほとんど出なかったそうだが、我々のよく知る「水戸黄門」は全国を経巡る正義の爺さんなので、この噺の舞台である掛川で、助さん・格さんを従えて悠々と腰掛けていたとしても、なにもおかしくないのだ。

問題の絵は、淀屋が見抜いた。
土佐光信の作だった。噺の中では土佐将監光信(とさのしょうげんみつのぶ)と呼ばれる。「将監」というのは官位の名前だ。土佐光信は絵師ながら、正五位下・右近衛将監の叙任を受け、その6年後には従四位下にまでなっている。

芸術家としては位を極めたカリスマ絵師・土佐将監光信が実際に「函館の雁風呂」を描いたかどうかはわからない。彼は室町時代の人なので、のちの時代にその作風を見抜く好事家がいてもまったくおかしくはないが江戸時代の初め(落語ではそういう設定だ)、単なる宿屋兼食堂の飾りに使われているというのは、芸術全般に対するなんらかの皮肉なのかもしれない。

その絵解き(なにが題材になっているか)までを語ることの出来る二代目淀屋の、その見識は物凄いものがある。しかし普通は「松には鶴」がつきものであり、絵の題材としては「雁には月」が当たり前である。なのになんだこの絵は…。

なんと1974年、サントリーウイスキー角瓶のCMに、「雁風呂」の絵の題材が、全部出てくる。

この「雁風呂」という噺は、メインの雁供養である民話(実際に渡り鳥たちが枝をくわえて飛んでくるという事実はない)と、豪商・淀屋辰五郎の闕所と金銭取立て、そして水戸黄門、という3つの要素がガッチリ巴になっている。

雁風呂の絵の真贋と内容はそのままだとして、絵解きをするのがその辺のおっさん、それを聞くのがその辺のおじいさん、ではなんとも張り合いがない。「あの人とあの人があの場所で出会って、なんとも情のあるあの話をする」という、旅情も含めてなんとも温かみのある話として成立するのは、「カリスマ絵師・豪商・権力者」という、物語を動かすにじゅうぶんな資格をもった登場人物がいてこそ、なのだ。

印籠代わりに黄門さまが、取立てに便利だろうと書き付けをくれる。これが何にも勝る援助となって、おそらく淀屋は、幾らかのお金を取り戻すことができたのだろうと思う。この巨大権力者からのお墨付きがあるからこそ、オチに向かえる。

雁(かりがねとも読む)と「借り金(および貸し金)がかかっているのだ。
この洒落を成立させるために、逆算して設定を考えたとすると物凄い。

しかしこれがなぜ「掛川」を舞台に出会っているのか…江戸と大阪のちょうど中間、と言えばそうであるが、理由はわからない。淀屋の目的地は江戸。水戸黄門とは向かう方向が違うので、旅の途中ですれ違うには良い場所だったのだろう。それとも「旅」の設定を模索する上で、掛川というのはなんらかの、特殊な場所だったのだろうか。

そういえば「掛川の宿」という落語もある。
あの名工・左甚五郎が登場する。
そして絵師・狩野探幽も出てくる。
なんだか有名人が集う場所として掛川は、使われやすいのかもしれない。


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